大恐慌
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実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった[52]

経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)を基に包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された[53][54][55][56][57][58][59][60][61][62]
中国「中華民国期の通貨の歴史」も参照

中国は当時南京国民政府の成立(1928年)当初であり、清朝以来の幣両制を元制に移行させつつある段階であった。中華民国の主要な港湾はすべてイギリスにより支配されており、関税自主権を持たない状況にあった。

中華民国は銀元を用いる最後の銀本位制採用国であった。世界恐慌で銀価格が暴落し輸入商品の価格を騰貴させたが、世界では銀需要国として銀相場が比較的高かったので世界中の銀が中国へ流れ込み(1929年から1931年に3.4億元)さらに物価を上昇させ、農村から経済を破壊してゆき、やがて工業製品も売れなくなっていった[63]

1931年9月に立て続けに発生した満州事変とイギリスの金本位制度離脱は中華民国の経済にとって負の画期であり、国際交易ではそれまでの銀流入傾向が流出に転じ、物価の下落や商工業・海外貿易の縮小に見舞われた。

ここでアメリカのトマス附属書が影響する。アメリカが銀の法定備蓄を開始すると (Silver Purchase Act of 1934)、国際市場での銀価格は急騰した。中国から大量の銀が流出し、国内金利は高騰した。そして物価が下落したり、銀行が倒産したりした。
ソ連

ソ連は社会主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続け、1930年にはGDP2523.3億ドルでイギリスを超えて世界第2の経済大国になった[64]。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された[65]

世界各国が大恐慌に苦しむ中、計画経済で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とヨシフ・スターリン書記長の神格化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の上流階級で裏切りが続出し、スパイになる人材が輩出されたことは冷戦時代に大きな意味を持った[66]
世界恐慌期の各国工業生産の推移

アメリカイギリスフランスドイツ日本ソ連
1928年939491999079
1929年100100100100100100
1930年81921008695131
1931年6884896892161
1932年5484695398183
1933年64887761113198
1934年66997180129238
1935年761066794142293

(1929年=100)

[9][要出典]
世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移

アメリカイギリスフランスドイツ日本世界総計
1925年末4,39981497831657610,244
1926年末4,49284597846456210,496
1927年末4,37984297747154210,602
1928年末4,1418361,27167654111,052
1929年末4,2847911,64156954211,272
1930年末4,5937922,09955241211,756
1931年6月4,9568652,21235942412,078

単位:100万ドル、イギリスは連合王国およびアイルランド含む。(出典:League of Nations,Statistical Year Book,1931-2,pp.266-9)[67]
社会科学における解釈とその影響詳細は「世界恐慌の原因」を参照
政治経済学

世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第一次世界大戦で崩れ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果として世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに「真正手形原理によるデフレ政策」を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。貨幣収縮によって米国の生産量に見合うだけの支払うべき資金(有効需要)がどこにもないからである。米国はインフレを受容して、その本位金保有高以上の資金創造を海外に投資することで国際分業を促進しなければならない立場にありながら、むしろ投資資金を引き上げることで世界各国の流動性を枯渇させた。モンロー主義孤立主義)が優勢で、ウッドロウ・ウィルソンの国際主義ではなかった。第一次世界大戦の参戦も、ルシタニア号事件とツィンメルマン電報事件が必要であった。第一次世界大戦後でさえ、ウィルソンが設立に尽力した平和のための国際組織「国際連盟」には上院の反対で参加できなかった。

レンテンマルクを発行しドイツの天文学的インフレ(レンテンマルク発行直前で1$=4兆2000億マルク)を収束させたワイマール共和国グスタフ・シュトレーゼマンの功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の勃興を促した。

軍事ケインズ主義を取ったドイツ・イタリア・日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策は景気の回復に結び付くには小さすぎたため、状況を好転させたが完全に癒すには至らなかった。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功と考えられ、事実、状況を好転させたが、「真正手形原理」のFRBが貨幣発行を金準備にあわせて、激しくマネーサプライを削った悪影響を完全に消去するに充分な、財政・金融拡張政策は組まれなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争と戦時国債発行によるマネーサプライが強力に余剰生産力を解消したのである。そういう意味でも「デフレ的」な「真正手形説論者」によって1929年に始まった世界恐慌は第二次世界大戦の素地を作ったと言える。事実、ニューディールは世界経済の需給ギャップを埋めるにはあまりにも小さく、財政出動に慎重でありすぎ、期間も十分ではなかった。アメリカは第二次世界大戦によってようやく後先を考えない政府支出を始め、国民もまた強力に政策を支持したことによりようやく不況から脱却し、飛躍するのである(参照:軍事ケインズ主義)。「ニューディール政策#政策に対する賛否」も参照
経済学

マルクス経済学では、資本主義諸国の経済の有機的連関によって、資本主義経済の矛盾も世界的に爆発的に広がる危険性を持つという[68]。当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という自由放任主義の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。


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