大怪獣ガメラ
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新人監督である湯浅を推薦したのは斉藤だった[注釈 5]。斉藤によると、「特撮経験豊かな湯浅しかいないだろう」との理由だったという。湯浅は「クランクインするまでが大変だった。慣れない絵コンテを描いて、撮入までには1か月ほどかかった」と語っている。

特撮監督は築地米三郎。築地は大映で特撮監督を務めてきたベテランで、企画頓挫した『大群獣ネズラ』の企画発案者でもあり、大ヒットしたこの『大怪獣ガメラ』を指して、「『ネズラ』はテストまでして会社に損させましたけど、『大怪獣ガメラ』では儲けさせましたからね。僕にとっては名誉挽回です」とコメントしている。築地のもとに本社から「亀の化け物を出せ」と指示が来たのは、脚本もまだできていない時点であり、すぐに築地は井上章にガメラのプロポーション画を4枚ほど描かせて検討に入ったという。

やがて高橋によって脚本は脱稿したが、湯浅は脚本を読んでもイメージがわかず、師匠の井上梅次に相談したところ、「アホ、こんなもん一番やさしいわ、演出やない、計算さえ出来たらだれでも出来るわ。特撮映画は計算や。計算でけへんもんに映画は出来ん!」と一喝された。湯浅はこの意見を受け、一般映画とは全く違う特撮映画の予算組みを把握するために撮入前の現像所に通い、フィルム合成やミニチュア制作など特撮予算のイロハからまず研究した。この合成技術の指導には、東宝の特殊技術課のスタッフにも師事したという。円谷は、いわば「抜け駆け」である弟子たちのこの行為を完全黙認していた[1]。なお、ちどり丸の前を逃げまどう人々などは実写ではなくアニメーションで描かれている。

本社で「B級予算」が組まれ、10月ごろには撮入となったが、大映本社側はカラーでの製作をしつこく現場に迫ったという。しかし、築地が白黒での製作を主張したため、結局は白黒作品となった。この理由について築地は「まず予算的な問題と人員不足。それと設備的な問題として高速度撮影用のカメラが無かったこと」を挙げており、「技術的に無理である」として会社を説得したという。

こうして工夫と苦労を重ねてついに完成を迎えたが、画をつないだだけの「総ラッシュ」の試写では撮影所長ができあがりに不安になり、途中で抜け出す有様だった。さらに本社で永田や重役が立ち会う中で完成試写が行われた際には、撮影所長は永田の怒りを恐れて「えらいこっちゃ」と逃げ出してしまった[注釈 6]。しかし、試写終了後に永田が一言「おもろいやないか!」と絶賛したため、重役たちも「いやあ、オモロイですな?」と一斉に社長になびき、これを見て監督以下スタッフは胸を撫でおろしたという。これには湯浅も「まるで喜劇ですよ」と苦笑している。

こうして完成した本作品は永田雅一の息子である永田秀雅によると、営業部では「所詮はゴジラの二番煎じ」と興行を危ぶむ声が主流だったという。しかし予告編が劇場に流れると、前売り券の売り上げが急上昇。封切り公開されるや大ヒットとなり、ガメラは次作『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』で返り咲き、ガメラの主演映画は一躍大映のドル箱シリーズとなっていった。
大怪獣ガメラ詳細は「ガメラ#昭和のガメラ」を参照

諸元ガメラ
身長60m
体重80t
飛行速度マッハ3

北極の氷の下で眠っていた、古代アトランティスの伝説に登場する巨大な亀。炎など熱エネルギーを吸収し、口から火炎を放射する。手足を引っ込めて炎を噴き出し、「回転ジェット」によって大空を飛行する。凶暴であるが、子供に対しては親愛の情を見せる。

外見のモデルについては諸説あり、
大映社長の永田雅一が飛行機に乗っていて見つけた亀形の島、または空飛ぶ亀の幻影。

大映東京撮影所近くの神社にいた、女性が参拝すると姿を見せる「スケベガメ」という愛称の亀。

ピー・プロダクション社長のうしおそうじが、1962年(昭和37年)に企画した特撮テレビ番組「STOPシリーズ」のデモフィルムに登場する巨大な亀。

などがあるが、湯浅憲明自身は脚本担当の「高橋二三のアイディアだろう」としている。一方、高橋は「永田社長が『亀の怪獣を飛ばせ!』と指示を出したと聞いた」と語っている。ピープロのデモフィルムに登場する「巨大亀」は手足を引っ込め、火を噴きだして空を飛ぶというものだった。うしおは後年、「大映にもこのデモフィルムを見せたから、どう考えてもガメラはこれを参考にしたと思う」と語っている。この件についてうしおが築地米三郎に問いただしたところ、「いや断じて違う、あれはジュニア(永田秀雅専務)のアイディアだ」と返答されたという[2]

企画者でもある斉藤米二郎は、「銀座のキャバレーで長崎出身のホステスが話してくれた『長崎では海水浴していると、くるくる回りながら女の子に寄ってくるスケベな亀がいる』という逸話を基にした」と語っており、関係者それぞれの証言が食い違っていて、諸説紛々といった状況となっている。
ガメラの名付け親

「ガメラ」の名付け親は、大映社長の永田雅一である。当初、プロデューサーの斉藤米二郎は本作品の題名を『火喰い亀 東京襲撃』と仮題したが、肝心の怪獣の名前がどうにも思いつかなかった。これに永田が怒って「むこうがゴジラなら、こっちはガメラや!」と独断で命名すると、担当重役が「ゴジラにガメラでは似過ぎている」と反対するが、永田は「そんなことゆうてるから駄目なんや!」と一喝。結局、永田社長が怪獣「ガメラ」の命名者となった。

永田は「ガメラは哀愁がないといけない」、「子供たちが観て『怪獣がかわいそうだ』とか哀愁を感じないといけない、子供たちの共感を得ないとヒットしない」と主張していたといい、永田のこの意見には斉藤も感心したという。永田はまた斉藤を社長室に呼びつけて「ガメラを泣かせろ」と指示してきたため、斉藤は現場と板挟みになって大変だったと語っている。
ガメラの美術・造形

ガメラのデザインは、1964年に大映から独立したばかりの八木正夫と、同じく大映美術スタッフの井上章によるものである。井上は『ガメラ対大悪獣ギロン』までシリーズの美術を担当した。

井上は本作品のガメラのデザイン画は50枚ほど描いたといい、そのなかには手足が無くムカデのようにはうガメラや、テントウムシのような水玉模様のガメラもあったという。結局は「画より立体のほうが分かりやすいだろう」ということで、美術監督の井上が粘土製の1雛型モデルを制作し、ここでOKが出た。監督の湯浅憲明によると、幾度にもわたる検討に、井上は最後はノイローゼ気味だったという。

ガメラの身長は当時、東京のビルの高さが33メートルに規制されていたので、縮尺を33分の1に設定し、ここから60メートルに決まった。湯浅監督は、ゴジラと差別化したガメラのキャラクター付けとして「動物らしさ」を強調し、四足歩行やアップの多用などの基本設定を考えた。劇中の東京タワーはガメラとの対比を考え、小さく作っている。

ガメラのぬいぐるみは、八木正夫によって製作された。八木によると、大映では怪獣の造形は初めてだったため、当初高山良策にガメラの製作依頼が持ち込まれたが、断られたために八木のもとに依頼が来たという。八木は当時日本テレビで仕事をしており、定時退社後にガメラの造形にかかった。ちょうど日本テレビは労働争議で騒然としており、テレビ部長は「こちらで処理するから当分来なくていいよ」と計らってくれ、このおかげでガメラ製作に専念できたという。

当初、八木は自宅の一室の畳を上げてガメラのぬいぐるみを制作していた。やがて、大映から完成を急かされて八木1人ではまかなえなくなったため、父親である東宝特殊美術課の八木勘寿に造形依頼を持ち込んだが、大映と東宝間の五社協定があるため、結局は八木の自宅の庭に造形用のプレハブ小屋を建て、そこで八木正夫が中心となって製作することとなった。


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