1950年代後半には、時代劇ブームを巻き起こし売上は業界No.1となる。1960年(昭和35年)には、現代劇を中心に手掛ける第二東映を設立して、制作本数を倍増させ、日本映画界のシェア50%を目指すが失敗。同社はニュー東映と改称され、1961年に東映本体に吸収される。
戦後、民放ラジオ局の黄金期は比較的短命に終わり、すぐにテレビの時代が幕開けした[25]。1953年開局の日本テレビはすでに一割配当を、ラジオ東京テレビ(TBS)も開局から1年半で黒字を達成していた[26]。商業テレビがきわめて有望な事業であることが周知になった1956年、駐留米軍からさらにチャンネル(周波数)が返還される見込みとなり、テレビ放送免許をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられることになった[27]。免許交付は難航し、政官財の綱引きの末、最終的に東京には公共放送のNHK教育テレビ、一般局の8チャンネル、教育局の10チャンネルの3つが開設されることになった[28]。平井太郎郵政相の勧奨によって、第三局の8はニッポン放送・文化放送のラジオ二社を中核とし、それに東宝、松竹、大映の映画三社が加わりフジテレビとなった[28]。鹿内信隆と水野成夫が財界の意を体し、株主も十に満たないため比較的すっきりとした資本構成に落ち着いた[28]。ところが、10は難渋を極め、その資本構成は、かなりややこしいことになった[29]。業種別では出版、映画、新聞、ラジオの四つからなる。資本別では旺文社などの出版グループ、東映などの映画グループ、日本短波放送が30%ずつ対等に分け、それぞれ代表権を得た[30]。残り10%を教育局を支持した岡村二一の東京タイムズが得た[30]。
NET社長
1958年(昭和33年)11月、港区麻布北日ヶ窪町(当時)にあった東映の所有地に突貫工事で建てられた社屋が竣工し[30]、1959年3月、第四局の日本教育テレビ(NETテレビ)が開局する[31]。会長には大川、実際の経営に当たる社長には旺文社の赤尾好夫が就いた[31]。しかし、教育局の制約から経営は思わしくなく、全国主要都市のテレビ局はわざわざ制約の多い教育局とネットワークを組みたがらず、第四局は、東京ローカル局に長く甘んじることになる[31]。開局から2年を待たず、経営不振の中で赤尾は会長に退き、社長には大川が就任する[31]。大川は早速、社名である「日本教育テレビ」を事実上、封印し、もっぱら「NET」の呼称に統一し[31]、経営改善に取り組んだ。
他方、東映の経営の多角化ではテレビ番組制作のための子会社として、東映テレビプロダクション、東映京都テレビプロダクションなど4社を設立。さらに全国各地に「東映ホテル」の展開を始める。このうち大川の郷里である新潟県には、新潟東映ホテル(新潟市中央区、1961年開館)と湯沢東映ホテル(南魚沼郡湯沢町、1962年開館)の2軒を進出させ、特に新潟は当時市内初の洋式ホテルで、かつては読売ジャイアンツ(巨人)などのプロ球団も地方開催の際に定宿としていた。また1961年には不動産の仲介、住宅地の開発を目的に東映不動産を設立した[32]。
1964年(昭和39年)9月、東映を急成長させたことで経営者として自信を深めていた大川は、東急を率いる五島昇と協議し東映と東急が互いに持株を売却することで合意、東映は東急グループから独立した[33]。独立がなった東映の経営には次期社長候補として長男・毅も加わり、ボウリング事業等に関わる。当時、京都撮影所長だった岡田茂(東映第2代社長)は、五島から、これからの東映は大川商店になると聞かされ、東急への転籍を勧められたが映画が作りたかったので断ったと回想している[33]。
大川・赤尾紛争
赤尾が会長に退いた後、大川は赤尾に覚られないように密かにNET株を買い集め、経営の主導権を握ろうと水面下で動いた[33]。