大島紬
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しかしながら、奄美大島は戦後の1946年から1953年までアメリカ軍政権下にあったため、日本国旗がデザインされている旗印の産地証紙の使用が禁じられた[14]。その後、奄美大島で新たに産地証紙として地球印の証紙が採用されたことにより、現在でも鹿児島市産、奄美大島産で区別されている。
歴史

大島紬の発祥の歴史については諸説があり、未だに明確にはされていない。しかし、1300年前にはすでに古代染色が行われていたと伝えられている。染色は、古代染色と同じ技法で、奄美に自生するテーチ木などを使って行われていた。これが現在の大島紬の染色技法の源流と考えられている。重要工程の泥染めの歴史は古く、正倉院の書物の中にも記述がある。起源としてもいくつかの説が伝えられている。初期の大島紬は、手紬糸を用いて地機で織られ、自家用として島民が着用していた [15]

現代の大島紬につながる文書記録では享保5年(1720年)、薩摩藩の指示により島役人以外の紬着用を禁じている[16]。そのためそれ以前より生産が行われていたと考えられ、黒砂糖とともに藩の重要な財源であった。幕末の記録『南島雑話』には、「織立はつやなけれども、程久しくつや出て至つてよく、縞がらも色々あり」と記録されている。明治維新によって奄美が薩摩藩の支配から解放され、貿易や金銭流通が自由に行われるようになった1879年(明治12年)頃から、大島紬が市場で取引されるようになった[17]1890年(明治23年)4月に行われた第3回内国勧業博覧会への出品で高い評価を得たあと、各地の品評会・物産会への出品を続け、知名度が上がっていった。

鹿児島に紬工場の設立も進んだ。1901年(明治34年)に業者統一、進歩発展、製品検査による粗製品の防止と品質向上を目的として組合員3000人で名瀬市に鹿児島県大島紬同業組合が設立された。これが現在の本場奄美大島紬協同組合の前身である。当初は検査規定の厳しさと組合の組織率の低さから検査が徹底されていなかったが、1904年(明治37年)に織物消費税が新設されたことにより、組合による製品検査の後、税務署が税額査定を求めたため、組合に加入せざるを得なくなった[15]。また時期を同じくして、永江伊栄温と永江当八の父子によって締め機による精巧な絣加工が確立され技術的にも進歩を遂げた[17]。そして大島が紬と言えるのは明治初年くらいまでであり、現在では撚糸を使い紬とは言えなくなっている。名称を付けるなら「大島絣」である。それまでの大島製作法は現在の結城紬とまったく同じものであり、ただ製糸する時に使うが結城では小麦粉、大島では海苔ふのり)、イギスといった海草を使う違いのみである。
製造工程

大島紬は、糸自体に柄を付けるために絹糸を綿糸で仮織りをし、それを染めたり加工したりして、解いて最後にまた織るため、細かく分けると50近い工程を経て作られる。分業制のため、それぞれに専門の職人がおり、職人の手から手へと織物が渡っていく中で、少しずつ完成形が浮かび上がる。全工程が手作業で、図案から製織まで、早いもので半年から1年近くかかるため、価格の大部分は長期間に渡る作業代といえる[18]。複雑な大島紬ほど製作日数がかかる。
図案作成・糸の準備
図案用のパソコンソフトを使って柄の設計をする。この時点でどれだけの糸が必要か計算し、糸の用意をする。
しめばた
絣の模様を作る工程。最後のはたおり機よりも一回り大きな機で、図案に合わせながら木綿糸で絹糸を強く織り締める。
染色
織機で織る要領で絹糸を木綿で挟み込み、防染(絣締め)する。ティーチギ[注釈 1]樹皮を煮出した汁により色を染める「テーチ木染」と、鉄分の多い泥土につけて発色させる「泥染め」の二段階に大別される。テーチ木染めにより色がピンク色から、泥染めを繰り返すことで最初はグレー、次に赤茶色、最後は艶のある暖かい黒色になる。 まずテーチ木に含まれるタンニンと泥中の分が反応して、大島紬ならではの黒褐色を生む。大きな釜で24?30時間程煮た汁に絹糸を入れてもみこみ、液を変えて何十回も繰り返し染める [19]。染まりが悪くなると、染色用の泥田に蘇鉄の葉を入れて鉄分を補い、化学的作用を強くする場合がある。
はた織り
はた織りは、平織りで織った反物の総称である。経(タテ)糸、緯(ヨコ)糸を一本ごとに交互に浮沈して織っていく。本場奄美大島紬は、糸を1本1本に柄の一部となる点を染色するために織り、点の入った糸を柄に合わせていきながら反物にするために織り上げて、反物の柄を表現する。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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大島紬の伝統的絣模様

大島紬は、事前に計算されて生み出された、その細かな点と点を合わせて作る絣の美しさが特徴とされている[20]。昔、奄美大島の人々は美しく広がる自然を柄のモチーフにしていたが、時代や工技術の研究・革新により、現在では古典的な幾何学模様(伝統柄)はもちろんのこと、 複雑繊細な各種の花鳥紋様、山水調などの日本の伝統的紋様にいたるまで、多種多様に渡っている[21]

【モチーフ(人工)】

ツガ升を表す文様。男性に使われることが多い小柄模様[22]の基本形として、よく使用される。
ヒバ板と板を繋ぐ時に使用するジョイント(接続部分)を表す文様。
トネ生活民具である飼料桶の形からできた文様。
勲章日清・日露戦役後、軍人が身につけた勲章の形から生まれた文様。高級化が求められた大島紬に、重圧感を与える柄として、大正末期から登場した。
カザモーシャ子供たちの玩具の文様。島の植物であるアダンの葉を材料に手作りされた風車がモチーフ。静止と回転状態それぞれから発想され、そしてさらに変化が加えられた多くの文様がある。風車柄を二つ組み合わせたものが発達して、ソテツ葉模様を生み、これが龍郷柄として定着したとされ、カザモーシャの絵図が大島紬の代名詞的存在である龍郷柄の原点とも言われている[23]
ガギ鍋を掛ける道具がモチーフとなった文様。
提灯提灯の形をしたもので変形がいくつかあり、小柄の柄として活用されている。
バラ「バラ」とは奄美大島の方言で、竹の網かごという意味である。生活用具の竹で編んだサンバラと呼ばれるザルがモチーフ。体に黒っぽいザルの格子柄に赤や青の十文字が交差した模様を持つ。龍郷町秋名地区の「秋名バラ」が有名[24]
ハサン織の時に使用する糸切りはさみの文様。常に身近にある道具だった。
網漁の道具である網から発想された文様。小柄「ツガアミ」の基本形。
車輪牛舎の車輪がモチーフ。割り込み式大島紬の基本形。
ヒジキ製織で使用される道具の杼の文様。
銭(ゼン)中央が開いている銭の形からきた文様。
絨毯豪華で複雑なオリエンタルな空気を醸し出す絨毯の柄から着想が得られている。
タスキ締め形と十字形がある。

購入や見学

大島紬は全国各地の呉服店や通信販売などで買うことができる。奄美大島と喜界島には、購入のほか泥染めや織りを見学・体験できる工房・施設がいくつかある[7]。奄美大島だけではなく、鹿児島県鹿児島市にある「奄美の里」でも奄美の自然や文化を堪能でき、大島紬の草木染め、織り、着付け体験ができる。

このほか大阪府池田市に「大島紬美術館[25]」がある。
奄美大島で観光客が体験可能な工房[注釈 2]

奄美大島・龍郷町奄美大島・奄美市
工房大島紬村金井工芸夢おりの郷肥後染色夢しぼり愛かな工房原絹織物泥染公園あまみ?る
泥染め○○○○○○○○
藍染め○○○○○○○
はた織り○○○
着付け○○○
製造見学○○

上記で紹介した工房以外にも大島紬に関連する体験が可能な工房はある。

最近では大島紬と洋装がコラボレーションしたものや、小物も多く販売されており、着物だけではない大島紬の楽しみ方が増えている。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ テーチ木、車輪梅のこと。
^ 大島紬の「泥染め体験」などができる。

出典^ a b 「BUYSELL 着物の女王「大島紬」魅力を分かりやすくご紹介」BuySell Technologies、2021年5月19日。
^ 「本場大島紬」KOGEI JAPAN。
^ 「 ⇒大島紬村オンラインショップ
^ 「大島紬職人後継者不足」『奄美新聞』、2019年6月15日。
^ a b 「本場大島紬の歴史」きもの幸造。
^ 「本場奄美大島紬」奄美市。
^ a b 「 ⇒奄美大島紬村・大島紬製造工場観光庭園


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