大岡昇平
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1926年(大正15年・昭和元年)4月、成城中学校が7年制の成城高等学校となったため、高等科文科乙類に進学[2][6]

1927年(昭和2年)9月、アテネ・フランセの夜学でフランス語を学ぶ[2]1928年(昭和3年)村井康男を通じて小林秀雄を紹介され、小林からフランス語の個人教授を受ける[2][12]。詩人中原中也とも小林を通じて知り合った[2][4]

1929年(昭和4年)3月、成城高等学校を卒業した[6]。同年4月、京都帝国大学文学部文学科に入学した[6]河上徹太郎や中原中也らと同人雑誌「白痴群」を創刊した[2][6][4]。1930年(昭和5年)母・つるが46歳で死去した[4][10]。翌1931年(昭和6年)には株の暴落が原因となって、父・貞三郎が全財産を失っている[4][10]

大岡は1932年(昭和7年)3月に京都帝国大学を卒業した[2][13]。卒業論文はアンドレ・ジッドの『贋金つかい』であった[2]1933年(昭和8年)ころから、大岡はスタンダールへの傾倒を深めていった[13]

1934年(昭和9年)2月(4月説あり)[2]、大岡は国民新聞社に入社したが、翌年2月に退社している[2][13][14]。1937年(昭和12年)、父貞三郎が62歳で没した[2][4][10]。同年10月、中原中也も死去した[4]1938年(昭和13年)10月、大岡は神戸の帝国酸素に翻訳係として入社した[2][13]。1939年(昭和14年)翻訳書『スタンダアル』を刊行し、同年10月上村春枝と結婚した[2]。1941年(昭和16年)2月に長女鞆絵、1943年(昭和18年)7月には長男貞一が誕生した[2][4]。長男誕生と前後して、6月に帝国酸素を退社している[2][13]。同年11月、川崎重工業に入社した[13][4]

1944年(昭和19年)3月、大岡は教育召集で、東部第二部隊に入営した[2][13][4]。7月にフィリピンのマニラに到着[13]。第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属し、ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴いた[2][13][4]

1945年(昭和20年)1月、マラリアでこん睡状態に陥っていた大岡は米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容される[2][13][4]


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