大岡忠相
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^ a b寛政重修諸家譜
^ 『系図纂要』
^ 宇野脩平『大岡越前守忠相』
^ a b 山口静子. “ ⇒小石川養生所初期の医療活動について”. 2020年7月21日閲覧。
^徳川実紀
^ 「両替年代記」「元文金銀引替一件」「銀切賃ニ付両替店員処罰」『東京市史稿』産業篇第十四
^ a b 大石(2006)、p.234
^ 大石(2006)、pp.234 - 235
^ 大石(2006)、pp.235 - 237
^ 大石(2006)、p.235
^ 大石(2006)、p.237
^ a b c 大石(2006)、p.238
^ a b 大石(2006)、p.239
^ 『大岡忠相』(大石学著・吉川弘文館)274-277頁、『実録 江戸の悪党』(山下昌也著・学研新書)44頁、『江戸の名奉行』(丹野顯著・新人物往来社)78-79頁。
^ 殺人犯の直助とは別人の権兵衛だと言い張っていた男を、裁判の最後に「これ直助」と呼び、つい返事をしたところを捕えたというエピソード。
^ 吉澤孔三郎 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第五話 息子爭ひ」『世界童話大系.第10巻(印度篇)』世界童話大系刊行会、1925年10月。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978860/171 国立国会図書館デジタルコレクション。 『第五話 息子爭ひ 一人の女が男の子をつれて、溜池のそばに行きました。そしてまづ男の子に水浴をさせたあとで、自分が水につかつてゐますと。一人の女鬼が通りかかりました。女鬼は、池のはたで遊んでゐる男の子を見ると、それを食べて見たくてたまらなくなりました。で、優しい言葉で暫らく男の子をあやしてゐましたが、やがてその子をとつて、とつとつと驅けだしました。母親は大さう驚いて、そのあとを追つかけました。そして追つつくが早いか、「わたしの子供を盜んで、どこへつれて行くんです。」と詰りました。すると女鬼はすまし返つて、「子供を盜んだとは誰のことです。これはわたしの子供ですよ。」と云ひました。かうして二人が云ひ爭つてゐますうちに、段々と人だかりがして、たうとうマホサダーの目につきました。マホサダーは二人の女から話を聞くと、地面に一本の線をひいて、「さあ、この上に子供を立たせるがいい。そして一人は兩手を、一人は兩足を?んで、引つぱりくらをしなさい。それに勝つたものが、本當の母親です。」と云ひました。そこで二人の女は、地面に條を引いて、その上に子供をおくなり、一人は兩手を、一人は兩脚を?んで、一生けんめいに引つぱりました。男の子は痛くてたまりませんので、大きな聲で泣き出しました。その聲を聞くと、母親は可哀さうになつて、覺えず?んでゐる手を放しました。
マホサダーはこれを見ると、人々に對つて、「子供に優しいのは、母親の心だらうか。それとも他人の心だらうか。」と尋ねました。「それは云ふまでもなく、母親の心ですよ。」と、人々が答へました。「それでは、子供をはなしたのが母親だらうか。放さなかつたのが母親だらうか。」とマホサダーが尋ねました。「勿論子供を放したのが母親ですよ。」と、人々が答へました。するとマホサダーは、「その通りぢや。」と云つて、女鬼を指しながら、「この女は、瞬きをしない、眞赤な目をしてゐるし、それは日が照つても、影が地面にうつらない。だから鬼だといふことがすぐわかる。」と云ひました。女鬼は恐れ入つて、子供を盜んだことを白?してしまひました。王さまはそれをお聞きになつて、マホサダーに會ひたいとお考へになりました。しかし大臣はやはりいろんなことを云つて、それをお止めしました。』
^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、185-186頁。 
^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、187頁。 
^ “大岡忠輔氏が死去 元クノール食品社長”. 日本経済新聞. (2018年12月17日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39044320X11C18A2CZ8000/ 2021年9月17日閲覧。 
^ “「超高速!参勤交代 リターンズ」追加キャスト7名、古田新太が大岡越前に”. 映画ナタリー (2016年2月5日). 2016年2月5日閲覧。

参考文献

根岸鎮衛耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、平成3年(1991年)。
江戸時代の随筆。忠相についての逸話を収録。

大石学『大岡忠相』 吉川弘文館人物叢書〉、平成18年(2006年)。ISBN 4-642-05238-0

大岡家文書刊行会 編纂『大岡越前守忠相日記』全三冊(三一書房、1972 - 1975年)。

関連項目

大岡越前祭

豊川稲荷 - 大岡忠相が勧請し、現在の豊川稲荷東京別院の基礎となった

2月3日(大岡越前の日)

奥付

元文丁銀

元文小判

遠山景元

先代
大岡忠真大岡宗家
1700年 - 1751年次代
大岡忠宜










大岡氏西大平藩初代藩主 (1748年 - 1751年)


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