大山阿夫利神社は、社伝によると崇神天皇の御代[5]に創建されたとされる。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。
天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。
中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。また、大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた[3]。なお、一部の地域には、大山に登ると一人前として認められるという伝承があり、大山の神霊が立身出世の神とされていたことがうかがえる[3]。
明治時代になると神仏分離令[6]を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされた。この時期に「石尊大権現・大山寺」の名称は使われなくなり、旧来の「阿夫利神社」に再び改称された。その後、大山寺はかつての女坂途中に場所を移して再建され、現在に至る。明治6年(1873年)には国学者の権田直助を祠官に迎え県社兼郷社に列格している。
戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年[いつ?]、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。
祭事
筒粥神事 - 天候を占う。
引目祭 - 厄を祓う。
山開き
火祭薪能
大山能
巫女舞
倭舞
探訪(ギャラリー)
下社
下社 獅子山
下社 登山口
山頂 前社
山頂 本社拝殿
山頂 奥社
山頂 奥社(3月でもまだ雪が降り積もっている)
山頂 鳥居
大山阿夫利神社本庁
現在も続く宿坊
交通アクセス
下社まで
公共交通
小田急小田原線「伊勢原駅」北口(バス4番のりば)
神奈川中央交通西バス 伊10系統「大山ケーブル」行きに乗車、終点下車(約25分)↓(下記の「大山ケーブル駅」まで徒歩約15分〈約600m〉)
大山ケーブルカー「大山ケーブル駅」?終点「阿夫利神社駅」(約6分)、下車後徒歩約3分
車
東名厚木インターより国道246号経由伊勢原大山方面(約40分)、市営駐車場あり(駐車場からは上記の「大山ケーブル駅」まで徒歩約15分)
本社まで
下社より大山の山頂まで登山(約90分)
脚注[脚注の使い方]^ ⇒大山阿夫利神社について:境内のご案内(大山阿夫利神社公式サイト)
^ 右端に表示の漢字を参照⇒
^ a b c d e ⇒大山阿夫利神社について(大山阿夫利神社公式サイト)
^ 宝賀寿男「第三部 畿内・東国に展開した初期分岐の支族 二 武蔵国造と東国の諸国造族」『古代氏族の研究O 出雲氏・土師氏 原出雲王国の盛衰』青垣出版、2020年、263、264頁。
^ 崇神天皇の御代は西暦の3世紀ごろに相当すると考えられている。もっとも、社伝と史実は多分に別儀である事をここに特記しておく。
^ 慶応4年・明治元年(1868年)3月の太政官布告。
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相模国の式内社一覧
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外部リンク
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