大山道
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経路:沼津(静岡県沼津市) - 竹之下(駿東郡小山町) - 足柄峠 - 矢倉沢(以降、神奈川県南足柄市) - 関本 - 松田惣領(足柄上郡松田町) - 千村(秦野市) -曽屋 - 善波峠 - 伊勢原(以降、伊勢原市) - 田村通り大山道を経て大山へ
※太字は人馬継立場
柏尾通り大山道不動明王堂(2010年3月21日)
道標などがある、戸塚の起点。

東海道方面からの経路で、現在の神奈川県横浜市戸塚区から大山へ向かうものである。この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、講衆同士が大げんかを始め、「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった[2]。なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至る。

神奈川県道401号瀬谷柏尾線神奈川県道22号横浜伊勢原線などが近似したルートを辿っている。

経路:東海道戸塚宿不動坂(神奈川県横浜市戸塚区柏尾町) - 岡津(以降、横浜市泉区) - 中田 - 和泉 - 上飯田村 - 境川 - 七ツ木村(以降、藤沢市) - 長後 - 用田 - 門沢橋(海老名市) - 相模川・戸田の渡し - 下津古久(厚木市) - 下落合(以降、伊勢原市) - 下糟屋 - 青山通り大山道を経て大山へ

芝生通り大山道

東海道保土ヶ谷宿の江戸寄り入口の芝生(しぼう)の追分で八王子街道に入り、鶴ヶ峰で分かれて二俣川、三ツ境、瀬谷を経由し下草柳、蓼川、小園を経て国分宿で矢倉沢往還に合流する。

昭和十年代に厚木海軍飛行場の建設により分断され、街道に近いルートをたどる神奈川県道40号線が基地を迂回して結んでいる。
八王子通り大山道

現在の埼玉県熊谷市から東京都八王子市を経て大山へ向かうものである。

武蔵国相模国の境界にある両国橋では、参詣者が境川の清流に祈願をこめて身を清めたともいわれる。久所の渡しのある田名は、相模川が増水して川留めになると、宿場として栄えた。「久所」の名は、川留めの際に久しく留まる所から来ているといわれている[誰によって?]。なお、橋本の棒杭から分かれて上溝、田尻を経て当麻(たいま)の渡しで相模川を越える経路もあった。国道407号国道16号神奈川県道63号相模原大磯線神奈川県道603号上粕屋厚木線神奈川県道611号大山板戸線などが近似したルートを辿っている。

経路:中山道熊谷宿(埼玉県熊谷市) - 松山(以降、東松山市) - 高坂 - 坂戸(坂戸市) - 高萩(日高市) - 根岸(狭山市) - 扇町屋(以降、入間市) - 二本木 - 箱根ヶ崎(東京都西多摩郡瑞穂町) - 拝島(昭島市) - 甲州街道八王子宿(以降、八王子市) - 片倉 - 杉山峠(御殿峠) - 両国橋(境川) - 橋本(以降、神奈川県相模原市) - 下九沢 - 田名 - 久所(ぐぞ)の渡し[注釈 1] (相模川] - 小沢[注釈 1](以降、愛甲郡愛川町) - 中津 - 三田村 - 才戸の渡し(中津川) - 下荻野村新宿(以降、厚木市) - 及川村 - 小野村 - 富岡村(以降、伊勢原市) - 上粕屋 - 青山通り大山道を経て大山へ

府中通り大山道

現在の埼玉県春日部市から東京都府中市を経て大山へ向かうものである。

1616年元和2年)に死去した徳川家康の遺骸を翌年久能山静岡県静岡市)から日光へ移すことになり、江戸幕府はその一行が通る小野路村(東京都町田市)に道を整備するように命じた。この時、小野路に一里塚が築かれた。大山講が盛んになると、小野路は宿場として栄えるようになった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}幕末期には近藤勇土方歳三沖田総司ら後の新選組の浪士が調布からこの小野路村の名主・小島家(小島資料館)まで剣術の出稽古に通ってきたという[要出典]。埼玉県道・東京都道40号さいたま東村山線が近似したルートを辿っている。

経路:日光街道粕壁宿(埼玉県春日部市) - 岩槻(以降、さいたま市) - 大宮 - 中山道浦和宿 - 荒川・羽根倉の渡し又は秋ヶ瀬の渡し - 宗岡村志木市) - 清戸(東京都清瀬市) - 東村山(東村山市) - 甲州街道府中宿(府中市) - 中河原(関戸)の渡し(多摩川) - 関戸(以降、多摩市) - 乞田 - 瓜生 - 小野路(以降、町田市) - 図師 - 木曽 - 境川 - 淵野辺(神奈川県相模原市) - 磯部(猿ヶ島)の渡し(相模川) - 猿ヶ島(以降、厚木市) - 下川入村 - 三田村 - 八王子通り大山道を経て大山へ

ふじ大山道

現在の東京都練馬区から大山へ向かうものである。

富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれ、それが明治期に入って「富士街道」の名で呼ばれるようになったものである。東京都練馬区北町1丁目の旧川越街道とふじ大山道の分岐点に、1753年宝暦3年)下練馬村講中により「ふじ大山道 田なしへ 三里 府中江 五里」と陰刻された道標が建立されており、練馬区指定文化財となっている。東京都道311号環状八号線東京都道441号池袋谷原線東京都道8号千代田練馬田無線東京都道12号調布田無線東京都道・神奈川県道19号町田調布線神奈川県道・東京都道57号相模原大蔵町線などが近似したルートを辿っている。

経路:川越街道下練馬村(東京都練馬区北町1丁目付近) - 田無(西東京市)- 別記[注釈 2] - 押立の渡し[注釈 3]多摩川) - 長沼稲城市) - 図師(町田市)? 府中通り大山道を経て大山へ


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