大宮宿
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江戸時代、大宮宿に柳屋という飯盛旅籠があり、街道筋でも評判の千鳥・都鳥という美しい姉妹が旅人の相手をしていたという。 やがて千鳥が宿場の材木屋の若旦那と恋仲となり、末は夫婦にと固い約束を交わす。 ところが、関八州を荒らし回る大盗賊・真刀徳次郎が横恋慕し、何が何でも千鳥を身請けするとしつこく迫り、挙句の果てには宿に火を点けると凄んで手を付けられなくなった。 これを知った千鳥は思いあまって、高台橋から身を投げてしまったという。 今日、高台橋の傍らにひっそりと佇む女郎地蔵は、千鳥を哀れに思った町の人々による建立と伝えられる。

さて、千鳥の悲劇があった頃、高台橋付近では鬼火火の玉)が多く見られた。人々はこれを高台橋から身投げした千鳥の霊魂であるとか、傍らの不動明王像の悪戯であるなどと噂し合った。 そんなある日の夜、一人の男が松の陰に潜んでいると、谷間から鬼火が現れた。これに怖れおののいて、男は鬼火に向かって出鱈目に斬りつける。すると大きな悲鳴が聞こえ、そして、物凄い形相の男が姿を現わした。その男は 「俺は不動明王だ。お前に剣を斬り落とされた」 と言い残して消えてしまった。 この話を聞いた人々が翌日様子を確かめに行くと、怖ろしい顔をした不動明王像は剣を持っていなかったという話である。 以来、像は「火の玉不動」と呼ばれるようになった。
下原刑場下原刑場も参照

先の盗賊団の頭目・真刀徳次郎は寛政元年(1789年)の4月、一族郎党とともに火付盗賊改方長谷川宣以に捕らえられ、処刑された。奇しくもその場は、飯盛女・千鳥が身を投げた高台橋の脇にある「下原刑場(しもはら けいじょう)」であったという。なお、その名「下原」は一帯が原っぱであったことにちなむものである。

この刑場は、明治元年(1868年)の明治天皇の氷川神社行幸の際、地元から嘆願書が出されて廃止されている。現在のさいたま新都心駅の東側一帯である。
涙橋(中之橋)

下町の排水路に架かる石橋であったという。大宮宿を江戸方へしばらく下った所にある下原刑場へと送られる罪人は、ここ中之橋あたりで遺される者と涙の別れをすることになっていた。そのため、いつの頃からか「涙橋」と呼ばれるようになったらしい。橋の跡地には今、「涙橋」と刻まれた碑が置かれている。
塩地蔵

次のような言い伝えが残っている。

昔、妻に先立たれた浪人が幼い2人の娘とともに旅をしていたところ、この地で病に倒れた。嘆く娘たちはある日の夜、夢枕に地蔵菩薩を見る。そのときのお告げに従い、塩断ちをして地蔵堂に祈る娘たちの願いは叶い、父の病は快癒する。喜んだ娘たちはたくさんの塩と線香を奉納し、のちには浪人はかつての主家に帰参することも叶い、2人の娘も幸せに暮らしたとのことである。そして、この親子にあやかりたく信仰を篤くした人々は、娘たちに倣って塩と線香を供えるようになったという。

信仰は今も続いており、毎日信心深い人々の訪れが絶えない。堂は今日でいう吉敷町四丁目の鉄道線路敷地内に祀られていたが、線路拡張のため吉敷町一丁目の中仙道沿いに移された。しかしそこで火災に遭い、1921年大正10年)、現在の吉敷町一丁目に再度移転された。隣に3体の子育て地蔵もある。
東光寺詳細は「東光寺 (さいたま市大宮区)」を参照

曹洞宗曹洞宗約15000寺のうち十指に入る北関東の名刹[14] である大宮山東光寺は、もとは大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)にあって、天台宗に属していた。徳川家光の頃、中山道の整備に伴い現在地に移されている。

寺伝によれば平安時代末期、武蔵坊弁慶の師匠とされる京・鞍馬寺の東光坊祐慶(宥慶)[15] が黒塚の鬼婆(おにばば)を法力をもって退散させ、鬼婆に殺された人々を葬るために庵を結んだことを起縁としている。史実としては、鎌倉時代に梁室元棟禅師がこの地に来錫(らいしゃく)して開山し、曹洞宗寺院に改めたとされている。なお、ここに見る「黒塚の鬼婆」というのは福島県の安達太郎山に伝わる「安達ヶ原(あだちがはら)の鬼婆」こと「黒塚の鬼婆」と同一の怪異者である。「安達ヶ原」は陸奥国の話であるが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大宮の堀之内を昔「足立ヶ原(あだちがはら)」と呼んでいたことから、混同が起こったらしい。[要出典]ただし、この種の伝承は日本各地に存在するのであり、いずれが本家・本元と言えるようなものではない。

東光坊祐慶が足立ヶ原黒塚の鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる、1寸8分の金銅薬師如来像を本尊とする。萬霊塔、庚申塔延宝8年〈1680年〉)あり。

また、東光寺は、中山道を往還する文人墨客[16] が足を留めた所でもあり、漢学者・上山寿山や先述の漫画家・北澤楽天、大宮市発展の礎となった駅の誘致に尽力した白井助七、といった名誉市民の墓碑もある。
東大成の庚申塔この節は大宮宿ではなく、近隣の解説である。

浮世絵師渓斎英泉が大宮宿の風景として描いたのは、当時、丹沢山地と富士山の眺望が素晴らしかった東大成(ひがしおおなり)の庚申塔近辺である(右上の画像と解説文を参照)。塔は元禄10年(1697年)の建立と伝えられる。正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻され、裏面には近在の22人の女の名が刻まれている。地元では「耳の神さん」「眼の神さん」として親しまれ、耳や眼の病いのときには団子を供えて平癒を願う。
名所・旧跡・観光施設

江戸方から上方へ(この区間では南から北へ)、おおよそ道なりに記す。
大宮宿


武蔵国一宮の石柱 :所在地はさいたま市大宮区吉敷町2-9。

氷川神社一の鳥居 :「
#氷川神社」参照。所在地は上に同じ。

安藤橋碑、伝・安藤弾正の墓碑 :「#安藤橋」参照。所在地は大宮区吉敷町1-103。

塩地蔵 :「#塩地蔵」参照。所在地は大宮区吉敷町一丁目。

涙橋(中之橋)跡 :「#涙橋(中之橋)」参照。所在地は大宮区下町2-29。

(紀州鷹場本陣):「#紀州鷹場本陣」参照。

(臼倉新右衛門家・本陣):文政年間(1818- 1830年)以前、臼倉新右衛門が代々務めていた本陣。現存せず(現・キムラヤベーカリー)。

(山崎喜左衛門家・本陣):臼倉新右衛門の後を受けて文政年間以降、代々本陣務めた山崎喜左衛門の屋敷。現存せず(現・岩井ビル)。

東光寺 :「#東光寺」参照。所在地は大宮区宮町3-6。

栗原家の持仏堂 :大宮宿にて脇本陣を3つも営んでいた[17] 栗原氏[18] の阿弥陀堂(持仏堂、栗原堂、御影堂〈ごえい-どう〉とも称)がある。栗原内記とその妻の木彫坐像も安置されている。所在地は大宮区宮町4-122。

さいたま市立博物館 :浦和宿と大宮宿に関する展示あり。

氷川神社 :武州六大明神の一つである、武蔵国一宮名神大社。「#氷川神社」も参照。所在地は大宮区高鼻町1-407。

大宮宿以北


土手町の椎の木 :旅路の目印として植えられていた2本のの大木が今も青々と葉を茂らせている。所在地は大宮区土手町1-29。

氷川神社裏参道石柱 :「官幣大社 氷川神社」と刻まれた石柱。

大山御嶽山道標(おおやま-みたけさん-どうひょう):安政7年(1860年)建立の道標で、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれている。すなわち、相模大山および大山阿夫利神社と、御岳山(東京都青梅市)、近隣の与野(現・さいたま市中央区)、引又(ひきまた。現・志木市)、そして、交易地として栄えていた川越への道を案内するものであった。なお、大山詣では、男子が15 - 20歳になると一人前と見なされ、村の大人とともに参拝する習わしとなっていた。所在地は北区東大成町一丁目。

八百姫大明神(やおひめ-だいみょうじん):嘉永7年(1854年)に再建されたと伝えられる「八百姫大明神」の石碑が小堂に納められている。八百姫とは、人魚の肉を食べて800歳まで生きたという、いわゆる「八百比丘尼(やお-びくに)」のことであり、当地にしばらく滞在していたとの伝説が残っている。所在地は北区植竹町1-197。

石上神社(いそのかみ-じんじゃ):中山道筋から西へ横道を入った所に小さながある。疱瘡(ほうそう)の神としてその禍(わざわい)から逃れられるよう信仰されたもので、太平洋戦争前までは露店が出るほどの賑わいであったという。所在地は北区東大成町二丁目。

馬頭観音、三界萬霊塔 :所在地は北区東大成町二丁目。

東大成の庚申塔 :「#東大成の庚申塔」と右上の画像および解説文を参照のこと。所在地は上に同じ。

加茂神社、天神橋の立場 :別項「上尾宿」にて記述する。

交通の基本情報
中山道の行程

江戸・日本橋から
三条大橋までの全行程 135248(約532.8 km[19])中


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