大学校_(1869年)
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開成学校への改称後、校地は東京大学法理文3学部に継承された(その後現在地の東大本郷校地に順次移転)。
大学東校W・ウィリス / 初期の医学校・大学東校教師

下谷御徒町の旧医学所跡に設置された。西洋医学教育を担当し、「本校」閉鎖後に制定された「大学東校規則・舎則」によると普通教育を履修する「予科」と、予科を修了した学生が進学する専門課程の「本科」からなり、両科はさらに正規課程を履修する「正則」と短期速修の「変則」に分けられていた。東校ではイギリス公使館附医師W・ウィリスを教師としていたこともあって当初はイギリス医学を中心としていたが、設立当初からドイツ医学採用を求める学内の声が高まり、明治4年(1871年)7月、「東校」への改称後、プロイセンよりミュレルホフマンらが招聘され教授として着任した。慶應義塾出身の松山棟庵慶應義塾医学所校長、東京慈恵会医科大学創立者)も大学東校大教授として着任した。なお、この後も印東玄得などは慶應義塾医学所ではイギリス医学を試みた。

その後9月25日(新暦11月7日)、東校は南校と同様にいったん閉鎖したのち学則を改正して10月に再開、入学試験を実施して学力優秀者の再入学を許可した。さらに明治5年(1872年)7月、変則の全廃とともに予科・本科における学科・課程の改定が行われ、これ以後はドイツ医学への転換が進行することとなった。8月の「学制」制定により東校は「第一大学区医学校」ついで「東京医学校」と改称されたが、ドイツ医学重視の流れは東京大学医学部に継承された。

下谷の校地は東京医学校に継承されたが、その後、病院の所在地であった神田和泉町へ、ついで1876年(明治9年)に東大医学部の現在地である東大本郷校地に移転された。
関連文献
単行書


寺崎昌男 『東京大学の歴史:大学制度の先駆け』
講談社学術文庫2007年 ISBN 9784061597990

天野郁夫 『大学の誕生(上):帝国大学の時代』 中公新書2009年 ISBN 9784121020048

事典項目


麻生誠 「高等教育〈学制以前〉」「昌平学校」「大学南校・大学東校」 『日本近代教育史事典』 平凡社1971年

宮崎ふみ子 「大学東校」 『洋学史事典』 雄松堂出版1984年

梅渓昇 「大学南校」 同上

寺崎昌男 「大学南校」 『日本史大事典』第4巻 平凡社、1993年

同 「大学南校」 『日本歴史大事典』第2巻 平凡社2000年

関連項目

大学寮

学習院 (幕末維新期)

皇学所・漢学所

昌平坂学問所

皇典講究所

大久保利謙 - 『東京帝国大学五十年史』の編纂に関与し「大学」内部の紛争に関わる史料を掘り起こした。










東京大学の源流・前身諸機関
江戸時代・
幕末維新期

【洋学】天文方蛮書和解御用蕃書調所開成所開成学校⇒大学南校⇒東京開成学校⇒(1877年設置)法学部理学部文学部
【西洋医学】種痘所⇒(幕府移管)西洋医学所⇒医学所⇒軍陣病院⇒医学校⇒大病院⇒医学校兼病院⇒大学東校⇒東京医学校⇒(1877年設置)医学部
【漢学】昌平坂学問所(昌平黌)⇒昌平学校⇒大学校⇒大学本校⇒(1870年閉鎖、翌年廃止)
【外国語】開成学校など⇒(1873年設立)東京外国語学校(旧外語)⇒(1874年分離設立)東京英語学校⇒(1877年設置)大学予備門
【法学】司法省明法寮法学校正則科(司法省法学校)
【工学】工部省工学寮⇒工学校⇒工部大学校
【農学】内務省農事修学場

旧「東京大学」期
(1877年 - 1886年)

(1877年設置)東京大学法学部(⇒1885年「法政学部」に改称)・理学部・文学部・医学部・(1885年新設)工芸学部
【教養課程】大学予備門⇒(1886年中学校令により独立)第一高等中学校
【法学】法学校正則科(司法省法学校)⇒(1884年文部省移管)東京法学校⇒(1885年合併)法学部


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