大奥
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大奥及び奥女中に対する規則は「壁書」以降、将軍の代替わりごとに確認され改訂されてきたと考えられている[6]。「壁書」で主に規定されていたのは大奥への出入りに関することである。男性の出入りが明確に禁止されているのは、大奥全体ではなく女中たちの宿舎である長局より奥であった[7]。5年後の「御台所法度」では、医師や大名の使者等の出入りについての記述が加えられた。寛文10年(1670年)には女中たちが守るべき「女中法度」、老中に対する「老中連署条目」が出されている。享保6年(1721年)の「女中法度」では、文通や宿下がり(一時帰宅)で交際が許される範囲やぜいたくの禁止等についての条文が加えられた[8]
構造の変化

大奥の構造は火災による焼失・再建の度に変化していった。綱吉の時代までの特徴は、老女や側室の居所が御殿向に点在していたことである。6代将軍徳川家宣の時代以降、側室は女中として長局に居住するようになる。これにより御台所と側室の立場の違いが明確化した。9代将軍徳川家重の時代に御鈴廊下が2本になったと考えられている[9]。本丸御殿は計5回焼失しており、文久3年(1863年)に焼失してからは再建されなかった。
幕末の政治問題による変化と大奥の終焉

幕末期の大奥には、表の政治問題が波及するようになる。弘化3年(1846年)に水戸藩前藩主徳川斉昭琉球蝦夷地に関して12代将軍徳川家慶に訴えかけようとして、上臈御年寄姉小路に書を送っている。その後、安政期の将軍継嗣問題では、南紀派と一橋派が大奥工作を行って政争を展開した。南紀派は13代将軍徳川家定の生母本寿院や上臈御年寄歌橋を味方に付け、一橋派は正室篤姫を通じて将軍に働きかけようとした。徳川家茂が14代将軍に就いてからは、大老井伊直弼らによって朝幕関係修復のため皇女降嫁が画策される[10]

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜が敗北し、新政府が慶喜の追討令を出した後、天璋院と静寛院宮はそれぞれ薩摩藩と朝廷に対して嘆願書を送っている[注釈 3][注釈 4]。 その後、大奥は幕府始まって以来初めて徳川家中へ向けた御触を発令し、恭順を徹底するよう命じた。同年4月、江戸城開城に先立って静寛院宮と家茂生母実成院は清水邸へ、天璋院と本寿院は一橋邸へ退去した[11][12]
構造

江戸城内曲輪は、本城(本丸二の丸三の丸)、西丸、紅葉山、吹上御庭、西丸下で構成されていた。このうち、大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸の3つの郭である。本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていた。ただし本丸の非常時には、二丸や西丸が代わりとして機能した[注釈 5]

図面は江戸城 大奥御殿向惣絵図[13]がある。

本丸御殿は、先述したように表、中奥、大奥に区分されている。この内、表と中奥は一続きの御殿であった。しかし大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が、御鈴廊下である。将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていたことからこの名が付いた。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」であるとされている。

大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画される。
広敷向
広敷は大奥の玄関口である。広敷には男性の広敷役人(広敷用人)がいたため、御殿との間の錠口、長局との間の七ツ口によって仕切られていた。七ツ口は、女中たちの部屋方や商人たちが用いていたが、七ツ時(午後4時)に閉められたためにこの名が付いた。
御殿向
将軍の寝所である御小座敷、御台所居所、「千鳥之間」、「呉服之間」といった大奥女中詰所などがあった。御台所の居所は、時代によって「松御殿」、「新御殿」などと呼ばれていた。歴代将軍の位牌がある「御仏間」や「御対面所」も、御殿にあった。
長局向
奥女中たちの2階建ての居所である。一之側から四之側までの4棟に加え、東長局、御半下部屋があり、格式に応じて一之側が上臈御年寄御年寄、二之側、三之側がその他の御目見以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちに配分された。
大奥女性の身分と立場
御台所詳細は「徳川将軍家御台所」を参照千代田之大奥 お召し替え「御台所のお召し替えの世話をする御台所付中臈橋本(楊洲)周延

大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、3代将軍家光以降は、五摂家近衛家九条家一条家二条家鷹司家)か四親王家有栖川宮家桂宮家伏見宮家閑院宮家)から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍・家斉の御台所・広大院と13代将軍家定の御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、縁戚に当たる近衛家に養女となった上で輿入れした。なお、7代将軍・家継の婚約者となった八十宮吉子内親王と、14代将軍・家茂の御台所となった和宮親子内親王(静寛院)はどちらも摂家・宮家出身ではなく皇女であった。


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