大奥
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慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜が敗北し、新政府が慶喜の追討令を出した後、天璋院と静寛院宮はそれぞれ薩摩藩と朝廷に対して嘆願書を送っている[注釈 3][注釈 4]。 その後、大奥は幕府始まって以来初めて徳川家中へ向けた御触を発令し、恭順を徹底するよう命じた。同年4月、江戸城開城に先立って静寛院宮と家茂生母実成院は清水邸へ、天璋院と本寿院は一橋邸へ退去した[11][12]
構造

江戸城内曲輪は、本城(本丸二の丸三の丸)、西丸、紅葉山、吹上御庭、西丸下で構成されていた。このうち、大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸の3つの郭である。本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていた。ただし本丸の非常時には、二丸や西丸が代わりとして機能した[注釈 5]

図面は江戸城 大奥御殿向惣絵図[13]がある。

本丸御殿は、先述したように表、中奥、大奥に区分されている。この内、表と中奥は一続きの御殿であった。しかし大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が、御鈴廊下である。将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていたことからこの名が付いた。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」であるとされている。

大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画される。
広敷向
広敷は大奥の玄関口である。広敷には男性の広敷役人(広敷用人)がいたため、御殿との間の錠口、長局との間の七ツ口によって仕切られていた。七ツ口は、女中たちの部屋方や商人たちが用いていたが、七ツ時(午後4時)に閉められたためにこの名が付いた。
御殿向
将軍の寝所である御小座敷、御台所居所、「千鳥之間」、「呉服之間」といった大奥女中詰所などがあった。御台所の居所は、時代によって「松御殿」、「新御殿」などと呼ばれていた。歴代将軍の位牌がある「御仏間」や「御対面所」も、御殿にあった。
長局向
奥女中たちの2階建ての居所である。一之側から四之側までの4棟に加え、東長局、御半下部屋があり、格式に応じて一之側が上臈御年寄御年寄、二之側、三之側がその他の御目見以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちに配分された。
大奥女性の身分と立場
御台所詳細は「徳川将軍家御台所」を参照千代田之大奥 お召し替え「御台所のお召し替えの世話をする御台所付中臈橋本(楊洲)周延

大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、3代将軍家光以降は、五摂家近衛家九条家一条家二条家鷹司家)か四親王家有栖川宮家桂宮家伏見宮家閑院宮家)から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍・家斉の御台所・広大院と13代将軍家定の御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、縁戚に当たる近衛家に養女となった上で輿入れした。なお、7代将軍・家継の婚約者となった八十宮吉子内親王と、14代将軍・家茂の御台所となった和宮親子内親王(静寛院)はどちらも摂家・宮家出身ではなく皇女であった。なお、初代将軍・家康と8代将軍・吉宗は将軍就任前に正室を喪い、在任中も新たな正室を迎えなかったため、実際には御台所は空席のままであった。

江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光正室・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表したことで、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、前述の家康や吉宗の例のように御台所不在の期間が合わせて約100年ほどあり、その間は先代将軍の正室や将軍生母らが大奥を主宰した。

生前に官位を賜ったのは

4代家綱正室・浅宮顕子女王(従三位)

6代家宣正室・近衛熈子(従一位)

10代家治正室・五十宮倫子女王(従三位)

11代家斉正室・近衛寔子(従一位)

12代家慶正室・楽宮喬子女王(従三位)

13代家定正室・近衛敬子(島津篤子)(従三位)

の6人だけで、世嗣となる子供を産んだのは2代徳川秀忠正室・お江与の方だけである。御台所は自らの夫が亡くなった場合は落飾して本丸から退き、西丸で余生を過ごした[注釈 6]
側室

将軍の側室は基本的に将軍付の御中から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中揩ェ将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って、「御台所了承」という手順を踏んで、寝間の準備が行なわれた。御台所付き中揩ノ拒否権はあったが、その場合は「永のお暇」となり、辞職して大奥を去らなければならなかった。

寝間を終えた中揩ヘ「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様」(おへやさま)となり、ようやく正式な側室となる[注釈 7]。さらに、我が子が世嗣に選ばれ将軍職に就くと将軍生母となり、時代によっては御台所を遥かに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。


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