大塩平八郎の乱
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次いで淡路町近辺でも両勢が衝突したが、大塩勢は壊滅し、決起はわずか半日で鎮圧された。大塩勢の戦死者は3名、巻き込まれて死亡した者15名に対し奉行所側は負傷者すらいなかった。

城代は在阪大名家や近隣各藩に出陣を要請し、市内や郊外において大掛かりな検問を行った。

大塩焼けは20日には鎮火したが被害状況は、『浮世の有様』などの史料によれば、天満を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上であり、その後の餓死者や病死者を含めるとそれ以上だといわれている。

大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った建議書が幕府に届くことを期待したのである。だが建議書は江戸に届いたものの、大坂町奉行所が発した差し戻し命令のため発送先に届けられず、大坂へと差し戻しの途中、箱根の関で発見され、押収されてしまう。

失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、以前から大塩家に出入りしていた商人美吉屋五郎兵衛の店(現西区靱油掛町付近)に押しかけ匿われたが、当家の女中が帰郷した折「五郎兵衛夫妻が神棚へのお供えとして2名分の食事を用意するが、全て食べられた状態で下げられるのは不思議だ」と漏らしたのを聞きとがめた村役人が、領主である大坂城代土井利位の古河藩陣屋に通報して露見した。3月27日早朝、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に潜伏先を包囲された末、火薬を使って火を放ち自決した。直ちに火が消されたが、そこには二体の黒焦げ死体があるだけだった。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。大塩と格之助の死体は牢獄が焼失していたため高原溜に送られて塩漬けにされた。逃亡した他の決起参加者もことごとく捕縛されるか自決し、高原溜に護送された。勾留環境は過酷を極め、処分決定時まで生きていた決起首謀者は、門弟で同心であった竹上万太郎だけであった。死亡した決起参加者の遺体は塩漬けにされ保存された。

重大事件であり、参加者も多かったことから、大坂町奉行所で審問、調書作成を行ったものを江戸に上申しやり取りするなど手間がかかり、処分は事件発生翌年の天保9年8月にようやく決定した。

主な者の処分だけで、大塩以下18名の塩漬け死体と竹上万太郎の合計19名が引廻しの後飛田刑場で、美吉屋五郎兵衛以下11名が引廻しの上打首獄門、3名が死罪、大塩の近親者ら4名が遠島、3名が中追放となった。

また、城代土井利位は美濃国兼定の刀を将軍から拝領するなど、鎮圧に功があった者への褒賞も同時に発表された。
事後

大塩の挙兵自体は半日で鎮圧され失敗に終わったが、幕府の元役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、幕府・大名から庶民に至るまで、世間に大きな衝撃を与えた。

大塩の発した檄文は庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万柏崎の代官所を襲撃する乱(生田万の乱)を起こしている。その檄文は寺子屋の習字の手本にされたほどだった。また、摂津国能勢では山田屋大助が一揆を起こし、数日にわたり付近を揺るがした(能勢騒動)。

この事件を境に、先述の生田万の乱を始め全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称した。また、最期の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年アメリカモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。

幕府としても、叛徒が元役人で武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったと考えられるが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は、事件1年後に磔を行うが、それは「塩漬け保存されていた遺体が十数体磔にされる」という異様な光景だった。しかも大塩親子は焼身自殺していたため、焼け崩れて塩漬けにされた遺体を目視で真贋判断などできるわけもなく、さらに生存説に拍車をかけることとなった。

また、大坂が都に近いということで、2月25日京都所司代松平信順から光格上皇および仁孝天皇に対して事件の報告が行われ、以後大塩の死亡までたびたび捜索の状況が幕府から朝廷に報告された。一方、朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。尊号一件などで大政委任を盾に朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が朝廷の命令をそのまま認めたことは、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆しと見ることができる。

大塩の挙兵は実録本の題材となり、数多くの写本が作成されて流布した[5]。その内容は、大塩の先祖を今川家と設定したり、仙石騒動の首謀者仙石左京との交流を描いたりするなど、様々な脚色が成されたものである[5]。その内容は明治時代の刊行物にも継承されたことが確認されている[5]
備考

大塩が幕閣に送りつけた建議書の中には、文政12年(
1829年)から翌年にかけて行われていた、与力弓削新右衛門らを仲介者とした武家無尽に関する告発が書かれていた。武家およびその家臣が無尽に関与することは禁じられていた(『御仕置例類集』第一輯)が、財政難で苦しむ諸藩は自領内や大都市で無尽を行って莫大な利益を得ていた。大塩は大坂で行われていた不法無尽を捜査した際にこの事実を告発したが、無尽を行っていた大名たちの中には幕閣の要人も多くおり、彼らはその証拠を隠蔽して捜査を中断させた。大塩はその隠蔽の事実を追及したのである。大塩が告発した中には、水野忠邦や大久保忠真ら、事件当時の現職老中4名も含まれていた[6]

建議書が箱根で押収されたことには、皮肉にも当時の社会の腐敗が飛脚にまでおよんでいたことが背景にあった。大塩の告発状が入った書簡を江戸に運んでいた飛脚は、その中に金品が入っていると思って箱根の山中にて書簡を開封し、金品がないと知るや書簡ごと道中に放り捨ててしまっていた。それを拾った者によって、書簡が韮山代官江川英龍の元に届けられ、内容の重大性に気付いた江川が箱根関に通報した、というのが顛末であった。さらに3月、今度は幕府から朝廷に対して大塩追跡の状況を知らせた文書が、同じ箱根山中で同様の被害に遭い、事情を知った関白鷹司政通武家伝奏徳大寺実堅を通じて京都所司代に対して抗議したことが、同じ武家伝奏の日野資愛の日記に記されている(ただし、資愛自身は事件当時は江戸下向中で、帰京後に聞いた話を記したものである)[7]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ このころは養子の格之助に家督を譲って隠居していた。
^ 六百数十になったといわれる[要出典]。


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