1980年代末より学習院女子大学、和光大学等の私大の非常勤講師を歴任。2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授[6]。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授[7]を歴任した。
2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」[8]。
半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』で大塚は、漫画家のみなもと太郎、民俗学者の千葉徳爾と宮田登の3人を「師匠」と呼んでいる。また、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』では影響を受けた思想家・批評家として江藤淳、柳田國男、三島由紀夫、吉本隆明などを挙げている。また、『戦後民主主義のリハビリテーション』にて、批評の対象ではなく読書の趣味の対象として愛読している小説家として、田山花袋、川崎長太郎、嘉村磯多の3人の私小説家を挙げている[9]。 1958年8月28日東京都田無市(現・西東京市)生まれ。父が満州からの引揚者だったため、工業排水が混じったドブ川沿いにあり、台風のたびに床下浸水する劣悪な環境の引揚げ住宅で大学入学まで暮らしていた[10]。父は元日本共産党員だったが、60年安保が終了した頃に離党した[11]。父は大塚が1歳ごろに経理関係の事務所を経営していたがすぐに失敗した為、大塚一家は困窮した[12]。その後、大塚の父は会社を転々としながら経理の仕事で家族を養っていた[13]。 中学生の時に漫画同人集団「作画グループ」に入会したのがきっかけで、高校1年生より漫画家のみなもと太郎のアシスタントを始める。高校2年生の時に、みなもと太郎が締め切りに間に合わなかった連載の代理原稿に自分が描いたギャグ漫画が採用されたのがきっかけで、ギャグ漫画家としてデビューする[14]。大塚が描いたギャグ漫画は学研の中学生向けの学習誌や『漫画ギャンブル王国』(海潮社
経歴
生い立ち
当初は経済的な理由で大学進学は断念して、高校卒業後は地元の市役所の水道課に就職して、働きながら漫画家を続ける予定だった[16]。しかし、両親が働きながら息子の学費を貯金してくれていて、国公立大学なら何とかなるのが分かったため大学進学を決意した。高校3年生の時に、師匠のみなもと太郎から『平凡パンチ』での連載を紹介されていたが、大学受験を機に自分の才能に見切りを付けて、その連載の話を辞退して1年で漫画家を引退した[17]。みなもと太郎のアシスタントそのものは、大学卒業頃まで不定期のアルバイトで手伝っていた[18]。
高校の現代国語の授業で柳田國男の『雪国の春』を読んで感動したのがきっかけで、民俗学を勉強したくて筑波大学第一学群人文学類に進学した[16]。大学では民俗学者の千葉徳爾と宮田登の指導の下で、日本民俗学を勉強した(千葉は柳田國男の直系の弟子だったため、大塚は柳田の孫弟子になる[19])。千葉徳爾は大塚の在学中に定年退官した為、大学生時代の4年間の内、最初の3年間が千葉徳爾、最後の1年間だけ宮田登の指導を受けた[20]。大塚は大学在学中に民俗学のフィールドワークの費用を稼ぐために、「作画グループ」の先輩の沢田ユキオの紹介で、徳間書店の雑誌『テレビランド』で漫画家のアシスタントのアルバイトをしていた[21]。