大塚康生
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そしてテレコムが『ルパン三世』の劇場版を作ることになった時に今度は大塚の方から声をかけ、宮崎にとって長編映画初監督作となる『ルパン三世 カリオストロの城』が生まれた[10]。この作品でも大塚は作画監督を担った[7]。続いて大塚は高畑勲が監督する映画『じゃりン子チエ』に参加、小田部羊一とともに作画監督を務めた[7]

その後、藤岡肝煎りの日米合作の超大作『リトル・ニモ』の企画実現に尽力するが、演出[注 3]予定だった宮崎・高畑・近藤喜文が相次いで退社し、大塚自身も途中で現場をリタイアする[11]。結局この作品は、『ニモ』として1989年に完成し、国内では不入りだったものの、アメリカではビデオが200万本のセールスを記録した[11]

1990年代以降はスタジオジブリ東映アニメーション研究所で新人指導に尽力し、代々木アニメーション学院のアニメーター科講師を務めるなど、後進の指導・育成が主な活動となった[3][6][12]

2002年、長年の功績を讃えて文化庁長官表彰が贈られる。このとき、「アニメーション作家として表彰する」との選考理由に、「作家とは演出家のことで、私は一技術者に過ぎない」と一旦は辞退したが、次に「練達のアニメーターとして表彰したい」と連絡をもらうと、態度を改めた[3]。「それなら今後いい仕事をしたアニメーターも、城の石を積んだ職人として世間に認知されるでしょうし、その第一号となったのはとりあえず喜ばしいことだと思い直しました。森康二さんやお亡くなりになった諸先輩の代理のつもりで、お受けすることにしました」というのがその理由だった[3]

2012年、宮崎駿からの依頼を受けて、映画『風立ちぬ』に登場する蒸気機関車の作画について助言するためにスタジオジブリを訪れた[7]

2019年、アニメ界と映画界での功績に対して、第42回日本アカデミー賞協会特別賞が授与された[5]

2021年3月15日朝、心筋梗塞のため死去[注 5][1]。89歳没。同年6月28日、杉並公会堂で「大塚康生さんを偲ぶ会」が開催された。有志による実行委員会(委員長は小田部羊一)が主催し、約700人が訪れた[2]
人物

日本のアニメーション草創期から第一線で活躍したアニメーター[13][14]高畑勲宮崎駿というアニメ界の2大巨頭を作画面で支えてきた人物で、後輩として東映動画に入ってきた2人の才能を見出して引き上げた師匠的存在だった[15][16][17]。『太陽の王子 ホルスの大冒険』で当時まだ実績のなかった高畑勲と宮崎駿を抜擢し、その後の2人のコンビ結成を後押しする役割を担った[7]。大塚は宮崎駿のテレビや映画の初監督作品で作画監督を務め、高畑勲を他社で制作する作品企画に誘って移籍のきっかけを作ったのも彼だった[7]。大塚について、宮崎は「アニメーションの入口を教えてくれた人」、高畑は「常に一緒に歩むわけでは決してなかったのに、私の転機には必ず大塚さんが現れて、私を別の方向に誘うのです。私がいちばんお世話になった人」と語っている[7]

代表作は、高畑や宮崎と組んで作画監督やキャラクターデザインを担当した『太陽の王子 ホルスの大冒険』『ルパン三世』『パンダコパンダ』『未来少年コナン』『じゃりン子チエ』のほか、『侍ジャイアンツ』『ガンバの冒険』など[14][16]。特に作画監督とキャラクターデザインを手がけた『ルパン三世』のテレビ第1シリーズや劇場版『ルパン三世 カリオストロの城』での仕事への評価が高く、後に続く同シリーズの礎を作ったとされる[14][18]

麻薬取締官事務所勤務という異色の経歴を持つ[注 6]

東映動画のアニメーター第一期生で、後から入社した新人時代の宮崎駿の指導を担当したことでも知られる[4]。それ以外にも、大塚は技術を論理的、分析的かつ平明に説いて多くの才能ある後進を育て上げた[7]。指導を受けたという人物は枚挙にいとまがない[注 7]

大塚はつねづね「アニメーターは演技者である」と公言しており[20]、コミカルで躍動感に満ちた描写で高い評価を獲得している[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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