大坂城
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2015年(平成27年)9月、多門櫓などが期間限定で公開された[21]

2016年(平成28年)1月から約半年間、多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵を特別公開[22]

2017年(平成29年)9月18日、天守閣の入館者数が1億人を突破した。10月19日、旧大阪市立博物館が改修され、複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」として営業を開始する。

2019年(令和元年)大坂城 太閤なにわの夢募金実行委員会」が発足。これは2013年3月27日から始まった「大阪城豊臣石垣公開事業」の実現のために結成された。事務局は大阪城パークマネジメント鰍ィよび大阪市経済戦略局観光部観光課の担当をもって構成されパークマネジメント事務所内に置いた。

構造大阪城の空中写真。1985年。上方が北。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
主要部のステレオ写真はこちら

台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸から見て低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。

大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が修築した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張は全て、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないといわれている。
豊臣大坂城豊臣大坂城の極楽橋(豊臣期大坂図屏風)。橋の両側の板塀や上層の楼閣外壁の彫刻などがルイス・フロイスの描写と合致する。慶長元年(1596年)に造られた橋だが秀吉没後の慶長5年に豊国神社に移築された[23]

初代築城総奉行、黒田孝高が縄張を担当。輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は孝高に築城に際しての指示、大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。丹羽長秀が築城した安土城の石垣の構築方法を踏襲しており、現在の大阪城の地下7メートルから当時の石垣が発見されている。

本丸の構造は建築に携わった中井正吉の系譜で、江戸幕府の京大工頭である中井家に伝来した指図から窺える。高石垣を築く技術が当時無く帯曲輪等により3段構造となっている。本丸内にある広い曲輪は、北から山里曲輪、最も高い位置を占め天守や奥御殿がある本丸奥の段、一段低く表御殿のある本丸表の段、その西にある出丸状の曲輪で構成された。

二の丸の規模は堀幅や深さを除けば徳川期とあまり差異は無い。ただし各虎口前には屋敷地を兼ねた大型の馬出があり、発掘調査から土塁と障子堀で構成されていた。また『大坂冬の陣図屏風』を見る限り、北側は石垣、南側は土塁、その中間は腰巻石垣で築かれていた。

台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように土塁による惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城・真田丸が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。宝厳寺唐門(国宝)(後方は観音堂)は、豊臣大坂城の極楽橋の唐破風造部分

なお、琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島にある宝厳寺唐門(国宝)は、現存する唯一の豊臣大坂城の遺構ではないかといわれている[24]
徳川大坂城

徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、藤堂高虎を総責任者とする天下普請を実行する。全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また天守など建物も構造を踏襲せずに独自のものに造り替えることになった。豊臣大坂城は当時においては30年以上前の「古い城」であり、朝鮮の役・関ヶ原合戦・大坂の陣の戦訓と天下普請を通じて発達した城郭技術に応じた新たな城が求められた。

足かけ9年、三期にわたる天下普請の結果、城郭の面積は豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、最大で幅約90mに達する外堀を巡らせ、天守はその高さも総床面積も豊臣氏のそれを超える規模のものが構築された。三重櫓は本丸に西之一番櫓、南西隅櫓、数寄屋前櫓、御成門之内櫓、埋門向櫓、北之手櫓、糒櫓、月見櫓、馬印櫓、東南隅櫓、南之手櫓、二の丸に伏見櫓と合計12基に及び、その数は江戸城をしのいで日本城郭史上最多となる。本丸と北側の山里曲輪のほぼ全周に多聞櫓を張り巡らした。二重櫓は山里曲輪に東菱櫓、西片菱櫓、二の丸に一番櫓、二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、六番櫓、七番櫓、太鼓櫓、千貫櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓、巽櫓と合計15基に及んだ。石垣の高さは本丸東面において堀底より約32メートルと日本一のものとなった。城門には蛸石をはじめとした巨大な鏡石が置かれた。また放棄された総構も畑や空き地として再建が可能な形で維持されていた。
天守

大坂城の天守は天正寛永昭和とこれまでに3度造営されている。いずれも外観は異なるが、復興天守は徳川大坂城の天守台を利用している。詳細は以下の通りである。
豊臣大坂城天守大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守大坂冬の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城天守の簡略模写市内出土の金箔押瓦大阪歴史博物館展示。

1585年天正13年)竣工、1615年元和元年)落城の際に焼失。

豊臣大坂城のものと見られている平面図『本丸図』では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。豊臣大坂城の天守は天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階で、1階の規模は南北11間?東西12間(柱間:7尺間)あったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの『日本史』にある[25]

天守の復元案には、一番壮大で華やかな『大坂夏の陣図屏風』(黒田屏風)を元に、『大坂冬の陣図屏風』、『大坂城図屏風』などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も三浦正幸などから出されている。黒田長政によって作成された黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。
徳川大坂城天守徳川大坂城天守(願生寺指図を元にしている。)

1626年寛永3年)竣工、1665年寛文5年)落雷により焼失。

徳川大坂城の天守は江戸城の本丸・初代慶長度天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、踊り場のような状態だった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。

建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、慶長度江戸城天守を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面だったとみられている。屋根は慶長度江戸城天守が鉛瓦葺なのに対して、創建当初の名古屋城天守と同様に最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺だったという。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。

規模は次のようになる(南北?東西、5階以外の柱間:7尺間)。

1階:17間?15間

2階:14間?12間

3階:11.5間?9.5間(入側縁のみ1.5間)

4階:9間?7間

5間:7間?5間(実際は8間(柱間:6尺1寸間)?6間(柱間:5尺8寸間))

江戸城天守や名古屋城天守と比較すると、1階規模は江戸城の18間?16間よりも1間小さくこれは名古屋城も同様である。一方で5階の規模は何れも8間?6間だが、1・2階が同規模故に逓減率が小さい名古屋城が7尺間なのに対して、順に逓減する大坂城は先述のように柱間を小さくして実現している。

天守の図面は、内閣文庫所蔵の『大坂御城御天守図』(内閣指図)と、大坂願生寺所蔵の『大坂御天守指図』(願生寺指図)がある。それぞれは相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は慶長度江戸城天守と同じ破風の配置である。現在は後者の指図が実際に建てられた天守を反映していると判断されている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。
復興天守

1931年昭和6年)11月7日竣工。

現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、博物館も兼ねた大阪城天守閣である。

陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って1928年(昭和3年)11月に就任した当時の第7代大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)11月7日に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円(建設資金としては現在(2021年時点)のおよそ12、3億円に相当[注 5])が集まった。そのうちの25万円は住友財閥総帥住友友成の寄付である。150万円の使い道は天守の再建に47万円、第四師団司令部庁舎の建築に80万円、大阪城のうち本丸などの一部の公園化(北部は大阪砲兵工廠、残りの大半は第四師団の敷地)整備費用に23万円である。

昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。(洲本城天守閣(1928年)が先行するが、こちらは模擬天守。)

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法を用いて建てた。


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