大坂城
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本能寺の変の発生後、大坂にいた信澄は、織田信孝、丹羽長秀らに討たれた[4]1582年(天正10年)6月の山崎の合戦後は、池田恒興が大坂に入った[3]1583年(天正11年)3月の賤ヶ岳の合戦で秀吉が勝利を収めた後、同年6月、恒興を美濃国へ移し、秀吉が大坂を得ることになった[5]

この移封について、フロイスは「此事は実に彼(恒興)の望に反して行はれたるものなり」と記述している(『日本耶蘇会年報』)[3]。一方、秀吉は、天正11年11月5日付の手紙で、「大坂の事、五畿内の廉目能き所に候の間、居城相定」めたと述べている[3]。大坂入城直後の天正11年7月には茶会が催され、千宗易津田宗及今井宗久松井友閑荒木道薫山上宗二らが集められた[6]
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豊臣期大坂図屏風に描かれた大坂城と城下の賑わい

1583年天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となった。

同年、秀吉は、加藤清正片桐且元細川忠興を採石奉行として小豆島へ派遣した(後年、秀頼は、同城修理のため、慶長4年(1599年)、黒田孝高を同島に派遣している)[7]

豊臣大坂城普請は四期に区分され、第一期(天正11年から13年)に本丸を、第二期(天正14年から16年)に二の丸を、第三期(文禄3年(1594年)から5年)に総構(三の丸)を、第四期(慶長3年(1598年))に馬出曲輪と大名屋敷を整備した。

文禄・慶長の役間の文禄5年(1596年)に行われた和議交渉に際して、使饗応のため本丸御殿は大改修が行わた。本丸南の表御殿には「千畳敷」と称される大規模な殿舎が、またこれまで別個の御殿だった表御殿と詰の丸の奥御殿を繋ぐ「千畳敷の大廊下」も建てられた。これらの建築は慶長伏見地震で倒壊したとも言われたが、実際にはその後も存続している。また慶長9年には秀頼が「二階作の千畳敷」を新造したとあるが、これが殿舎を指すのか廊下を指すのかは不明である。なお表御殿のある本丸南側と奥御殿のある詰の丸との地表差は3メートル以上ある[8]。何れにしろ「千畳敷」「千畳敷の大廊下」も大坂の陣まで残り、『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』双方に描かれている。

一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌1586年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して1587年(天正15年)の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執った。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。
江戸時代

『本丸図』
豊臣大坂城本丸の縄張りを描いたものとされる。

『大坂御城御本丸并御殿繪圖』(江戸時代前期)

航路図(本絵図の中央部に大坂城が描かれている)/神戸市立博物館蔵

城の西に広がる芝生。『錦城の馬場』 (浪花百景)

1598年慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い石田三成方の西軍が敗れた結果、徳川家康によって東軍への恩賞という形でその所領が分配されたため、220万石の大大名から65万7千400の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。しかし、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城後の大坂城は、初め家康の外孫・松平忠明に与えられた(10万石)[9]大坂藩)。忠明に課せられた任務は大坂の町の復興であり[9]、城そのものにはあまり手が加えられることはなかった。1619年元和5年)7月、忠明は大和国郡山藩12万石へ移封となり、大坂は幕府直轄領となる[9]

1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する[注 3]大坂城再築工事が開始された。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で58大名を動員して本丸一帯を、1628年寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成した。

幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となった。他に大坂城代を補佐する定番2名(京橋口定番・玉造口定番)も譜代大名から選ばれ、旗本で編制された幕府の常備軍である大番2組(東大番・西大番)に加勢する加番4名(山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番)が大名から選ばれた。なお、大番と加番は1年交代制だった。城代は江戸時代を通じて70代の就任をみている。本来の城主である将軍は家光家茂慶喜の3名のみ大坂城に入城している。このうち在城期間が最も長いのは家茂で、大坂城にて生涯を閉じた唯一人の将軍である。

江戸時代には三度の落雷による損傷と修復を繰り返した。一度目は1660年7月25日(万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失した[10]。爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷した。天守や御殿、、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡、家屋1481戸が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もある[11]。後に幕府は現存する石造りの焔硝蔵を建造した。二度目は1665年寛文5年)正月2日で落雷を天守北側の鯱に受けて天守を焼失した。天守は39年と短命だったが、本丸の三重櫓11基は以降200余年にわたり残存した。三度目は1783年天明3年)10月11日で、大手多聞櫓に落雷が直撃し全焼。幕府の財政難のため再建は1845年弘化2年)からの町人御用金による総修復まで待つこととなった。

江戸末期、慶応3年12月9日1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍の敗北が濃厚になると、同年1月6日(1868年1月30日)夜、慶喜は大坂城を脱出し江戸へ退却した。


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