大坂城
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江戸末期、慶応3年12月9日1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍の敗北が濃厚になると、同年1月6日(1868年1月30日)夜、慶喜は大坂城を脱出し江戸へ退却した。翌1月7日(1868年1月31日)には徳川慶喜征討大号令が発せられ、大坂城内に群衆が乱入。そして、新政府軍への大坂城の引き渡しが行われた1月9日(1868年2月2日)、本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の四番櫓・五番櫓・七番櫓・太鼓櫓・艮櫓・巽櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどを焼失した。
近代

幕末期の本丸東側
1865年 - 1866年の家茂在城中に撮影された。

明治20年(内務省発行地図)

明治期の西の丸北西側

再建工事中の天守閣、1930年

明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となった。

1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。

1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。紀州御殿は、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用された。

1887年(明治20年)以前に比定されている大坂並名古屋鎮台写真帖(宮内庁書陵部蔵)には玉造門の高麗門や西の丸の仕切門、複数の番所が写されていることから、これらの建物は戊辰戦争の戦火を免れ、明治初期、少なくとも鎮台が置かれるまでは現存していたことになる。

1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された。

1895年(明治28年)、天守台の東側に大手前配水場が建設され、地中に配水池が設置される。

大正時代、城周辺の公園整備計画が持ち上がる[12]

1928年昭和3年)、当時の大阪市長關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇即位記念事業として整備が進められた[13][14]。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎[注 4]と復興天守の建設が進められた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成した。この頃まで八角薪蔵や西の丸米蔵が残っていたと考えられる。

1931年(昭和6年)、復興天守が博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工する。第4師団司令部庁舎竣工。大阪城公園開園。

1933年(昭和8年)、紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した。

1937年(昭和12年)11月3日、陸軍の命令で防諜のため、天守閣内へのカメラの持ち込みを禁止する。

1940年(昭和15年)12月、8階の展望台を始めとして各階全ての窓が板で塞がれる。

1942年(昭和17年)9月25日、天守への立ち入り、次いで城内への一般人の立ち入りが禁止される。

1943年(昭和18年)、天守に中部軍防空情報隊(後、第35航空情報隊、司令部は桜門桝形の西側)が入る。

1945年(昭和20年)8月14日、第8回大阪大空襲で大きな被害を受ける。この終戦前日に行われた空襲では大阪城の東側に広がっている大阪砲兵工廠が集中的に狙われ、周辺にも1トン爆弾が多数投下されている。近隣の京橋駅もその巻き添えとなり、避難していた乗客約500人が死亡する大惨事が起きている。大阪城では1868年(慶応4年)の火災で被害を免れていた二番櫓・三番櫓・坤櫓・京橋門・京橋門多聞櫓・伏見櫓が焼失し、青屋門が甚大な被害を受けている。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれた[15]が、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れた。このほか、一心寺に移築されていた豊臣時代の三の丸玉造門(長屋形式の黒門)も焼失している。

現代

終戦後城内の陸軍用地は占領軍に接収された。復興天守は現在も健在であり、大阪の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。

1947年(昭和22年)9月、占領軍の失火により紀州御殿を焼失した。

1948年(昭和23年)8月25日、接収が解除される。その後は建物の修理が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となった。

1949年(昭和24年)、天守内の博物館が再開される。

1950年(昭和25年)のジェーン台風によりまたもや大きな損傷を受けた。

1953年(昭和28年)から傷んだ櫓や空襲で崩れた石垣などの本格的な補修事業が開始された。併せて学術調査も行われ始めた。3月31日、大坂城跡が国の史跡に指定される。6月11日、大手門、千貫櫓、乾櫓など建造物13棟が重要文化財に指定される。

1955年(昭和30年) 6月24日、大坂城跡が国の特別史跡に指定される。

1959年(昭和34年)にはボーリング調査の結果、地下約9.3mの位置から石垣と思われる花崗岩が確認され、その地点を中心に3m四方の範囲を掘り下げたところ地下7.3mの位置で高さ4m以上の石垣が発見された。その翌年、発見された豊臣氏の大坂城本丸図との照合により、これが豊臣時代の遺構であることが確認された[16]。本丸内の司令部庁舎の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に大阪市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた東外堀跡の南端部では拳銃の射撃訓練も行われた(大阪府警射撃場跡は玉造口土橋東側に現存)。大阪陸軍造兵廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京開高健の小説の舞台ともなった。

1981年(昭和56年)、保存運動や文化庁の調査指示があったにもかかわらず、それらを無視した大阪市が大阪陸軍造兵廠旧本館を取り壊した。

1983年(昭和58年)、「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪陸軍造兵廠旧本館跡地には大阪城ホールが開館された。弁天島を含む一帯には次々と大企業のビルが建ち並び、「大阪ビジネスパーク」が完成した。

1995年(平成7年)12月から1997年(平成9年)3月まで天守には「平成の大改修」が行われた。

1997年(平成9年)9月、天守が国の登録有形文化財に登録された。

1996年(平成8年)、桜門と太鼓櫓跡石垣が修復され、さらに大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋められた東外堀が総事業費25億円をかけ3年がかりで復元される(ただし、青屋口の周囲と玉造口の東側は復元されず)。

2001年(平成13年)3月31日、大阪市立博物館が閉館し、翌4月1日に大阪歴史博物館が開館する。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(54番)に選定された。

2007年(平成19年)、大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり、登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明した。実務上は、建物の所有者は大阪市[17]であり、土地は国からの借用であるということになっている[18]

2014年(平成26年)、大阪市は、大阪城公園、大阪城天守閣(博物館)ほかの施設の指定管理者として、大阪城パークマネジメント共同事業体(代表者 株式会社 電通 関西支社(当時))を選定した。指定期間は2015年4月から2035年3月までである[19][20]重要文化財の『大坂夏の陣図屏風』(通称黒田屏風)は、大阪城天守閣の所蔵品である。

2015年(平成27年)9月、多門櫓などが期間限定で公開された[21]


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