慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍の指揮を執り上洛した。
同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼は右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下の執政が豊臣家になく徳川家が世襲すことを全国に示したものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており[2]、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが[注釈 2]、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった[3]。
5月8日、家康は秀頼に対し臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は六男の松平忠輝を大坂に遣わし、融和に努めている[3]。
慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇の即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)[注釈 3][3]。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。
慶長17年(1612年)、前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない[注釈 4]。
二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、豊臣家は幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり[注釈 5]、兵糧や浪人を集めだし、さらには前田家と関係を構築しようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。
豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教勢力との接触は両軍ともに存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる[注釈 6]。 鐘銘事件の弁明のために駿府に派遣されていた片桐且元が大坂に帰還すると、大野治房や渡辺糺から家康との内通を疑われるようになった。9月23日には織田信雄から暗殺計画の存在を知らされた且元は、屋敷に籠もり防備を固めた[6]。秀頼と淀殿は両者の調停を行うとともに且元に武装解除を命じたが、織田長益など近隣の屋敷での武装が開始されていたため、且元は応じなかった[7]。9月27日、秀頼は且元に寺に入って隠居するよう命じて執政の任を解き、10月1日に且元は配下の兵を率いて茨木城に退去した[8]。大坂方は家康に敵対するつもりはないと弁明したが、家康は且元罷免の報を受けて激怒した[9]。江戸方・大坂ともにすでに戦になることは明白であると受け止められるようになり、大坂城からは織田信雄・織田信則・石川貞政などの親族衆や重臣も退去していった[10]。 10月2日、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[注釈 7]。
方広寺鐘銘事件詳細は「方広寺鐘銘事件」を参照
片桐且元の追放
大坂冬の陣冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大
豊臣方の準備