原田は渋谷パルコの喫茶店で増村から出演オファーを受けた[7]。難役をどうこなすかは、原田の今後の転機になるだろうと見られた[2]。撮影時は17歳と見られるが、幼い顔にアンバランスな豊満な乳房を折檻シーンなどで披露する。年齢に配慮してか、お客との濡れ場シーンはない。また他の遊女の濡れ場シーンも映さない。
田中絹代は藤井と親交があったことから手弁当での出演[7]。映画公開後に入院し、藤井がブルーリボン賞作品賞の賞状と感謝の手紙を持ってお見舞いに行ったら、既に生死の境をさまよっていてそれを見せることは出来なかったという[7]。白坂が行動社はお金がなく俳優もほとんど無名と話していることから[7]、岡田英次と梶芽衣子も付き合いでの出演と見られる[7]。
広島出身の灰地順が、りんが売られる待合茶屋の主人を演じ、方言指導も兼ねており(オープニングクレジットのスタッフロール表記)、9割以上を占める御手洗の登場人物の話す言葉は、比較的違和感のない広島弁となっている。 白坂衣志夫は子供のとき疎開先で苛められて、以来田舎が嫌いで、東京からほとんど出たことがなく、原作を渡され「何これ!田舎じゃん」と拒否反応があったが、原作を読んだらとても面白く「田舎にアタックしよう」と脚色を決意した[7]。元々、シナハンに行かずに脚本を書くため[13]、本作は金もなく、作品の舞台である四国や御手洗には行かず[13]、地図を見ながら想像で脚本を書いた[7]。白坂の脚本を増村が現場で直す形[7]。原作者の素九鬼子からは「映画というのは小説とは全く別のものだから、お好きにどうぞ」と言われた[7]。白坂は「原作は箸にも棒にも掛からないものがほとんどなんで、よく目茶苦茶に直して、原作者から抗議されて文藝家協会に提訴されたこともあります。だけど、一流の小説家は何も言いませんね。二流以下になるとうるさい。ことに女流作家がうるさいです」などと述べている[7]。脚本執筆は1975年夏[17]。白坂が土着性の強い作品を手掛けるのは初めてで、脚本は原作より戦闘的になった。影響を与えたのは当時、迫真の説得力でテレビに出まくっていた中ピ連の榎美沙子だという[17]。 増村も原作者の素と会い、素から小説の舞台である島や四国遍路の話を聞いた[18]。増村は原作を読んだ時、「こんなに強烈で自我を貫いた女性が昭和10年頃の瀬戸内海に存在したのか?」と疑問に思った[19]。中国地方、瀬戸内海、四国地方と、ロケハンし、行く先々で宿屋や茶店、通りすがりの若い娘と話し、西日本の女性が活気に満ちて、自己主張が激しく、勇壮なバイタリティーに溢れていることを知った[19]。増村は「今まで日本人には真の個人性、真の独立と自由はないと思い、これまで強烈な自我を主張する西欧型の女性ばかりを飽かず不断に描き続けてきた。しかし素九鬼子のりんを発見して、もはや、そんな必要は全くない気がした。自主独立の女性は日本にも存在する。その女性さえ描き抜けば、近代的な人間の理想像は十分に表現できる。『大地の子守歌』と、その勇敢な女主人公りんを描くことによって、私もまた、自分の監督生活の良き曲り角にしたい」と演出に挑んだと話している[19]。 撮影は3ヶ月[7]。増村の演出はワンカットごとに「もっと強く」「もっと激しく」「もっと悲しく」とリハーサルを何十回も繰り返し、原田は「疲れた」と話している[7]。主舞台は、広島県呉市の大崎下島御手洗であるが、当地での撮影は行われず、島のシーンは岡山県下津井でロケが行われた[20]。スタジオ撮影は東京映画撮影所[7]。撮影は四国・瀬戸内ロケ→スタジオ撮影→東京八王子ロケの順に行われた[7]。
脚本
演出
撮影記録
受賞歴
第50回キネマ旬報賞
日本映画ベスト・テン第3位
読者選出日本映画第2位
主演女優賞:原田美枝子(『青春の殺人者』と合わせて)
第19回ブルーリボン賞
作品賞
新人賞:原田美枝子
第1回報知映画賞
新人賞
影響
1985年公開の黒澤明監督『乱』での原田美枝子楓の方役は、黒澤が本作の原田の演技に感心してのキャスティング[7]。
原田は撮影後、増村監督から4つのことを守りなさいと言われた。
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