大国主神
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妻:八上比売(やがみひめ、『先代旧事本紀』では稲羽八上姫)因幡の白兎の段に登場。

子:木俣神(きのまた の かみ、御井神)[4]木俣に刺し挟まれたことからの名。


妻:沼河比売(ぬなかわひめ、こし の ぬながわひめ、『先代旧事本紀』では高志沼河姫、『出雲国風土記』では奴奈宜波比売命)高志国における妻問いの相手。『出雲国風土記』によれば高志八口の妻で、間に御穂須須美命が生まれたという。奴奈川神社祭神。

子:建御名方神(たけみなかた の かみ)[4]諏訪氏守矢氏の祖であるともいう。諏訪大社祭神。


妻:鳥取神(ととり の かみ、鳥耳神、鳥甘神)八島牟遅能神(やしまむぢ の かみ)の娘。

子:鳥鳴海神(とりなるみ の かみ)この神を含む系譜は十七世神と称される。


『出雲国風土記』のみ登場の妻子


綾戸日女命
(あやとひめ の みこと) - 宇賀郷での妻。

真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ の みこと) - 神門郡朝山郷の妻。

八野若日女命(やのわかひめ の みこと) - 神門郡八野郷の妻。



山代日子命
(やましろひこ の みこと) - 意宇郡山代郷

和加布都努志能命(わかふつぬし の みこと) - 秋鹿郡大野郷、出雲郡美談郷

阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ の みこと) - 神門郡多伎郷

『播磨国風土記』のみ登場の妻子


弩都比売
(のつひめ)

許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ の みこと)



火明命(ほあかり の みこと) - 弩都比売との子

阿賀比古・阿賀比売(あがひこ・あがひめ) - 飾磨郡英賀郷

伊勢都比古命・伊勢都比売命(いせつひこ の みこと・いせつひめ の みこと) - 揖保郡林田郷

石龍比古命・石龍比売石(いわたつひこ の みこと・いわたつひめ の みこと) - 揖保郡出水郷

建石敷命(たけいわしき の みこと、建石命) - 神前郡

玉足日子・玉足比売命(たまたらしひこ・たまたらしひめ の みこと) - 讃容郡雲濃郷

爾保都比売神(にほつひめ の かみ) - 丹生都比売神社祭神

神社社伝にのみ登場の妻子

白比古神
(しらひこ の かみ) - 白比古神社の祭神[5]。大己貴命の御子神。

奈鹿曽彦命・奈鹿曽姫命(なかそひこ の みこと・なかそひめ の みこと) - 奈鹿曽彦神社・奈鹿曽姫神社の祭神[6][7]。大国主神の子である兄妹神。

妻 : 天止牟移比売(あめのとむいひめ) - 『粟鹿大明神元記

子 : 天美佐利命(あめのみさり の みこと) - 粟鹿神社の祭神。


妻 : 国安珠姫(くにやすたまひめ) - 岩木山神社の書物『岩木山縁起』が出典で、安寿姫と同一か。

子 : 往来半日(読み不明、洲東王) - 『岩木山縁起』


後裔

三輪氏(みわうじ)大国主神の子・事代主神または大物主神を祖とする氏族。大神神社社家

鴨氏(かもうじ)事代主神の後裔・大鴨積命に始まる氏族。三輪氏同族で鴨都波神社社家。

石辺氏(いそべうじ)三輪氏同族。

宗像氏(むなかたうじ)事代主神の後裔・阿田賀田須命の後裔。三輪氏同族で宗像大社社家。

諏訪氏(すわうじ)大国主神の子・建御名方神を祖とする氏族。諏訪大社社家を歴任。

守矢氏(もりやうじ)建御名方神の子・片倉辺命を祖とする氏族。諏訪大社社家を歴任。

億岐氏(おきうじ)事代主神の子・天八現津彦命を祖とする氏族。意岐国造・隠岐国国司玉若酢命神社社家を歴任。

長氏(ながうじ)事代主神の子・天八現津彦命を祖とする氏族。長国造御間都比古神社社家を歴任。

都佐氏(とさうじ)事代主神の子・天八現津彦命を祖とする氏族。都佐国造土佐神社社家を歴任。

波多氏(はたうじ)事代主神の子・天八現津彦命を祖とする氏族。波多国造高知坐神社社家を歴任。

依網氏(よさみうじ)事代主神の子・天八現津彦命を祖とする氏族。

信仰

『古事記』上つ巻、及び『日本書紀』神代紀(下)に拠れば、スクナビコナらと共に「大国主神が行った国作りとは、人々に農業や医術を教え、生活や社会を作ること」であったとされる[8]。荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築いた。また出雲大神には祟り神としての側面があり、転じて「病を封じる神(医療神)」になったという[8][9]古事記には、出雲大神の祟りで口がきけなかった本牟智和気命垂仁天皇第一皇子)が、出雲大神に参拝することで口が利けるようになったとの逸話がある[10]

医療神としての信仰の事例を近世挙げると、1883年(明治16年)10月に明治天皇皇后昭憲皇太后[11]もしくは大正天皇の生母柳原愛子が病弱だった明宮(のち大正天皇)の健康を祈り[12]出雲大社より大国主の分霊をとりよせ、明宮が生活していた中山忠能邸の神殿に祀っている[13][14]

大正天皇は皇太子時代の1907年(明治40年)5月27日[15]、軍令部長東郷平八郎大将と共に[16][17]、出雲大社を参拝した[18][19]。先述の「記紀にて人々に医術を教えた事による医療神信仰」に加えて、大正天皇は己卯の年の生まれ(平易に言えば干支は卯年の生まれ)であるので、(大国主の兄弟神たち・八十神に嘘の治療法を教えられて浜辺で泣いていた兎を正しい治療法・蒲の穂の花粉で癒やしたという因幡の白兎の)[8]逸話等から験を担いだものとされる。
神仏習合

「大国」はダイコクとも読めることから同じ音である大黒天(大黒様)と習合していった[20]
祀る神社

大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。

出雲大社島根県出雲市

物部神社 境内 稲荷神社、一宮祖霊社(島根県大田市

大洗磯前神社茨城県大洗町

大中神社茨城県常陸太田市

神田明神東京都千代田区


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