大和_(戦艦)
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機密保持は厳重を極めた[18]。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ大量のが全面に張り巡らされた[19]。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[20]造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[21]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の事実だった[22]海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[23]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[24]

1940年(昭和15年)3月3日、海軍はB計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した[25][26]。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[27]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した[3]。なお同日附でB計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している[25]

同年8月8日進水[28][29]。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた[28]。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[30]昭和天皇海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作するも[28]、進水式は結局天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで行われた[28][31]。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ[32]。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮千代田城二重橋を描いた有田焼風鈴を500個制作、関係者のみに配布した[33]。8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した[31]

大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた[34]。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令[12]昭和16年(1941年)9月20日、呉工廠で最終艤装中の大和。

1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖での試運航で、荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノット(約50.7km/h)を記録[12]。続いて30日の宿毛湾で、全力公試27.46ノットを記録[2]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた[35]。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した[12]真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う[36]。呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した[13]。同日附で第一戦隊に編入された[37]。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された[4]。大和の1/500模型は昭和天皇香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され[38][39]、海軍艦政本部の金庫に保管されたという[40]


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