昭和初期の第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}関東軍の重砲兵として入隊した当時、「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に当たる」と教えられた。疑問を挟むと、「貴様は敢闘精神が足らん。砲の不足は大和魂で補え」と怒鳴られた。—中内?「私の履歴書」(日本経済新聞、2000年1月31日)「防御鋼鈑の薄さは大和魂で補う。それに薄ければ機動力もある。」砲の力が弱いと言うが、敵の歩兵や砲兵には有効ではないか。実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている。その戦車をつぶす為には戦車が要る、という近代戦の構造を全く知らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかったから、知らなかったというのが本当らしい。—司馬遼太郎「歴史と視点 私の雑記帖」(新潮社)
日本の敗戦直後は使われることは少なくなったが、その後の日本文化論には本来の「大和魂」の意味に近い論立て[注 3]に基づいた論考は多く見受けられる[10]。
平成以降も「大和魂」という語は様々な場面で使用されており、例えばスポーツ界などに散見される[11][12][13][14]。
大和魂を題材とした作品
和歌
何故に砕きし身ぞと人問はばそれと答む日本魂(谷川士清)
反古塚の碑陰に刻まれた歌[15]。原文は万葉仮名である。
敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)
一般に流布する本居宣長像のモデルとなった「六十一歳自画自賛像」の歌。たばこの銘柄(「敷島」「大和」「朝日」「山櫻」)に選ばれたほか[16]、日本文学報国会撰「愛国百人一首」にも選ばれており[17]、神風特攻隊の諸部隊の名称にも使用された[18][19]。
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)
囚人となって下田から江戸へ送られる時に、泉岳寺の前を通過した際に詠んだ歌[20]。川田順撰「愛国百人一首」に選ばれている[21]。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂(吉田松陰)
『留魂録』の冒頭の歌。日本文学報国会撰「愛国百人一首」に選ばれている[17]。
しきしまの大和心を人問はば蒙古のつかひ斬りし時宗(村田清風)
宣長の歌を下敷きにして詠んだ歌。川田順撰「愛国百人一首」に選ばれている[21]。