日本以外には、移民(日系人)としてブラジルを始めとするラテンアメリカ諸国、アジア、ヨーロッパ、アメリカ合衆国など世界中に分布した。現在、彼らは日系ブラジル人や日系アメリカ人として、それぞれの国の少数民族として暮らしている。
大日本帝国時代には大日本帝国が台湾と朝鮮半島を領有・南洋諸島(マリアナ・パラオ他)を委任統治し、さらにアジアや南太平洋の各地に進出して分布域を広げたことにより、それら外地に一定の社会基盤を築いていったが、太平洋戦争が終結した後、日本政府統治地域(内地)へ帰っていった。
終戦の混乱によって本人の意思に関係なく、現地に残った人々が存在する。彼らの中には中国残留日本人となったり、またインドネシア独立戦争などに参加した残留日本兵などがいるが、そのほとんどは現在高齢化している。
1945年以前に日本が領有した地域の中では、樺太やパラオ共和国などに小規模ながら残留日本人の共同体が現存する。
言語日本語の文章
この節の文章は日本語として不自然な表現、または文意がつかみづらい状態になっています。文意をわかりやすくするよう、修正が必要とされています。(2020年5月) 日本の有史以来、大和民族は日本語を話してきたと考えられている。この場合における「日本語」とは邪馬台国から上代、中古、中世、近世を経て現代日本語(標準語)に至るまでの一連の流れを指す。 日本の領域で話し、または話された事のある言語のうち、この概念から外れるものとしては、北方民族(アイヌ、ウィルタ、ニヴフ等)が話す北方諸語、奄美群島や琉球諸島の民族が話す琉球諸語がある。 日本語と琉球諸語はともに日琉語族(日本語族)に属する。日琉語族と他の言語・語族との系統関係は未だ明らかにされていない。 古代に語彙面で中国語の大きな影響を受け、漢語が大量に入り込んだ。語彙ほどではないが、拗音や語頭ラ行音・語頭濁音・母音連続の許容等、音韻面で受けた影響も少なくない。近世前期までは京都方言、近世後期には江戸方言が中央語 なお、日本の中でも奄美群島と沖縄県の大半(旧琉球王国領域)で話されている伝統的な言語である琉球語は、音韻・語彙がそれ以外の現代日本語とは大きく異なり口頭での意思疎通は難しい。ただし、その琉球語も研究により上代から中古、中世までの日本語の影響を色濃く残している事が判明している。琉球語の祖先に相当する琉球祖語は日本祖語と非常に近く、あるいはほぼ同一(日琉祖語)と考えられている。 奄美群島や琉球諸島の言語も地域差が非常に大きく、しばしば諸言語の集合「琉球諸語」と捉えられる。 ただし琉球(諸)語も日本語と同系統の言語であり、日琉語族に入れる。一方、日本国内で話されてきた言語としては、他にアイヌのアイヌ語があるが、非常に近い場所で話されてきたにもかかわらず、アイヌ語と日本語は、単語の借用を除き、類似性がほとんど認められず、全く別の言語である。 表記については、漢字が伝わる以前の独自の文字は現在まで見つかっていない。絵文字とも思われる模様が刻まれた土器が発見された事例はあるが、発掘例も少ないため、文字と呼べるだけの規則性は見受けられないとされている。 漢字の伝来後はこれを表記に用い、後に、漢字を大幅に崩すことで、音節文字の一種である平仮名、片仮名が成立した。これまで全て漢字や万葉仮名で記述されていた日本語をそのまま文章にすることが可能となり、日本文学が発生・発展した。中世には現在の日本語の書き言葉の原型となる和漢混淆文が成立し、日本語は漢語と和語を織り交ぜた自在な表現力を得た。 日本語は多種の文字を組み合わせるという複雑な表記体系を持つが、近現代において日本人の識字率は極めて高い。近世の大和民族は、世界的に見ても識字率が高い民族であった。仮名や簡単な漢字を読むことは江戸時代の庶民の間では常識の域に属し、庶民層を対象にした盛んな出版活動がなされた。江戸時代に日本国外から来日した外国人は、大和民族が身分や男女の別なく文字が読める事を驚きと共に本国に伝えている。 今日では、漢字、仮名の他に企業名や単語の略称などにラテン文字が使われる機会も多い。さらに数字の表記には漢数字の他、アラビア数字、ローマ数字を使用していることも多い。近年では日本語を解さない、ポルトガル語、スペイン語、漢語を母語とする日系人の還流も多い。 大和民族の信仰は、土着の民族固有の信仰が発展した神道、および外来宗教の仏教が多数派で、「神様、仏様」といった表現からもうかがえるように、日本人はこれら2つを混在して信仰している場合も多い。他、新宗教の信仰者や、無宗教者も存在する。[26] 古代においては在来の神祇信仰であり、その後はその発展形態である神道が信仰されるようになった。また仏教伝来後は仏教も同時に信仰される場合が多く(→日本の仏教、神仏習合)、祖先崇拝などでの影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。信仰のあり方は一神教的な救済論的なものではなく(一応、鎌倉時代にそのような仏教宗派が多く見られたが)、習俗的な穏やかなものであり、自らを「信者」とはみなさない場合も多い。しかし、広い意味での宗教的な感覚は、冠婚葬祭や年中行事などの場面で、他宗教とは異質な独自の信念が意識されることがある。時には、臓器移植に対する抵抗などが独特の文化であると主張されていたが、実際にはどの国でも、生命倫理上移植手術は導入時に抵抗があった。 大和民族は、独自の文化を土台にして、他民族の文化・宗教を取り入れ、融合・発展させてきた民族。また、近代以降はアジア諸国を中心に他民族の文化に大きな影響を与えてもいる(日本化)。 特に中国の中華文化の影響は大きく、奴国は後漢に、また邪馬台国は魏や晋に、また倭の五王も東晋、宋、南斉、梁に使いを送り、その後も遣隋使や遣唐使を派遣し、中国大陸の進んだ技術や文化を貪欲に学んでいった。その一方で、大和民族は朝鮮半島やベトナムなど、他の中華文明圏とは違い、中国に直接支配された経験はなく、また海を隔てるという地理的要因から、受け入れた外国の文化(とりわけ中華文明)を独自に消化していく余裕があった。やがて、外国の文化と日本独自の文化が融合し、日本文化が生み出されていった。 16世紀、ポルトガル人などの西洋人来航により、日本人は西洋文明を初めて直接受け入れ、南蛮貿易を通じて受け入れたヨーロッパ文化を独自の日本的な形に昇華していった。1873年ウィーン万博の日本館 幕末の条約港開港以降は、アメリカ・イギリスをはじめとする欧米から西洋の風習が日本に入り、それらは在来文化と融合し、変化・変質して独特な展開を遂げた。
「日本語」、「日本語の表記体系」、および「日本語の起源」も参照
起源
歴史
琉球諸語
表記
宗教「日本の宗教」も参照
文化「日本の文化」を参照
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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