大和民族
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ただし、ヤマト王権の成立過程は現段階でも明らかになっておらず、謎も多い。

大和民族の形成当初は九州地方隼人や、東北地方蝦夷が異民族とされていた。しかし彼らは中世以前に大和民族と完全に同化している。琉球諸島の住民は中世に独自の王朝を築いた歴史を持ち、日清両属状態を解消して完全に日本に組み込まれたのが明治になってからであるため今でも文化的異質性が残っている。
呼称

中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、邪馬臺國の親魏倭王卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」と表記されているが、晩以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本稿でも「邪馬台国」「やまとこく/やまたいこく」と表記する。古くは中国より「」と呼ばれ、大和民族も「倭人」と書いて「ワジン」と自称したり、また「倭」を「ヤマト」と訓じるなどしていたが、やがて「倭」の表記は廃れ、代わりに「大和」の表記が一般的となった。
生物学的考察本土日本人 (Mainland Japanese)、琉球人 (Ryukyuan)、アイヌ人 (Ainu)と他のアジア民族集団の系統樹。本土日本人は集団としては韓国人と同じクラスターに属した[2][3]

明治期における人類学的な区分では、坪井正五郎が先史時代の先住民であるコロボックルアイヌ(及び樺太アイヌ)、琉球民族朝鮮民族・台湾漢人、台湾原住民などを除いた集合を大和民族と主張していた。当時はそのほかに、日本人には上流階級に多い長州タイプ・庶民に多い薩摩タイプという人種的区分が存在するという指摘がエルヴィン・フォン・ベルツらからなされることもあった。戦前の国定地理教科書でも、大日本帝国を構成する民族として、「朝鮮人」「支那民族」「土人」「アイヌ」とともに「大和民族」が挙げられている[4]
Y染色体ハプログループ(父系)による系統

父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した[5]。注目すべきはCTS8093の痕跡を持つ男性グループが夥しい数の子孫を残していることである。これはCTS3946のSNPに定義される縄文系のD系統が日本人最大の枝であり、一夫多妻、多産多死の社会にあって日本の支配者層として長期間にわたり君臨し続けてきたことを示唆している。またこのように遥かに古い系統が広範囲に見られることは先進国において類例がない[6]F1204(K10)に定義される枝は日本人の弥生系の子孫であり、D系統に次いで繁栄したグループであることを示している。さらにM216のマーカーを持つC系統を合わせると日本人男性の8割がこのいずれかに属しており、現在の日本人男性の大半を占める[7][8]。C系統の内、F3393以下のM8のマーカーを持つ系統は、非YAP(YAPの変異を持たない)縄文系であり、日本列島に最初に到達した系統であるとも見られている[9]。C系統の内、M213の痕跡を持つものは、モンゴル女真満洲などの北方遊牧民族と祖を同じくし歴史時代になって以降の渡来とみられる。漢民族に由来するM122のマーカーを持つグループは、渡来時期も系統も異なる雑多な寄せ集まりであり、散発的に日本列島に渡来した技能者らの末裔であると考えられる[10]
Y染色体一塩基多型分岐図

 A0000 A000-T                    


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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