大和時代
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応神天皇の治世では多くの渡来人の来朝があり儒教漢字が伝わり、ここから日本列島外との交流が深まる。応神天皇の子の仁徳天皇は課税を三年間止めた後で大規模な灌漑事業を実施した善政が知られる。仁徳天皇の孫の雄略天皇は専制的な統治で朝鮮半島への干渉や中国(南朝)への遣使を盛んに行った。しかし雄略天皇が崩御すると天皇(大王)の権力も衰え大伴物部蘇我の各豪族が先後して実権を握っていった。6世紀前半には仏教が伝来する(日本の仏教の項を参照)。

推古天皇以降の時代は飛鳥時代ともいう。中国からの外圧が強くなると再び中央集権化志向が高まり聖徳太子の法律(十七条憲法)・官制改革(冠位十二階)を経て大化の改新645年)後、天皇中心の政治が法体制的に確立していった。さらに遣隋使遣唐使の派遣もあって農業・鍛鉄・建築など多方面にわたって技術が発展し、なかでも仏教美術は発達した。

乙巳の変白村江の戦い壬申の乱といった動乱を経て大和朝廷はさらなる改革に踏み切った。それまでの氏姓制度を改め公地公民制や統一的税制(租庸調制など)を施行し地方行政機構を改組して中央集権化するなど律令制の導入を図った。末期の701年には大宝律令が定められた。710年平城京遷都をもって大和時代は終わり律令国家としての時代が始まる。律令制は10世紀初めに崩壊したが名目的には19世紀の明治維新まで維持された。
単純計算による日本書紀の解釈

考古学上の実在が想定されうる天皇は5世紀末の金錯銘鉄剣銘によるワカタケル雄略天皇までである。

日本書紀では天皇の在位年数で年代を表している。しかし大和時代の天皇には異常な長寿が多いので日本書紀の年代は正確と言い難い。そこで仮説として系図については信用する前提で1世代を30年として年代を単純計算する方法がある。飛鳥時代の年代に不自然な点はなく概ね信頼できるので、ここから逆算していく。
古墳時代中後期大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)
画像:2007年撮影
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

飛鳥時代の始まりである推古天皇即位が593年なので7世代前の応神天皇即位は古墳時代中ごろの4世紀後半になる。応神天皇陵、仁徳天皇陵に治定されている誉田御廟山古墳大仙陵古墳は考古学的にも5世紀前半の築造とされている。また日本書紀で応神天皇仁徳天皇の治世に在位したと記される百済王は朝鮮半島正史である三国史記において4世紀後半から5世紀初めの王である。年代は一致している。

なお日本書紀の年代と三国史記の年代は応仁天皇期で120年ずれている。日本書紀の年代を機械的に当てはめれば応神天皇即位は3世紀後半、その母親の神功皇后3世紀中ごろの人物となる。3世紀中ごろは魏志倭人伝に記される邪馬台国卑弥呼台与がいた時代であり日本書紀の神功皇后摂政39年、40年、43年、66年に魏志倭人伝からの引用文がある。ただし書紀に邪馬台国や卑弥呼・台与の名は無く「倭の女王」とだけ書かれている。神功皇后と倭の女王を同じとする記述もない。
古墳時代前期

応神天皇を4世紀後半の人物としてさらに遡ると、その5世代前にあたる崇神天皇即位は3世紀中ごろとなる。古墳時代の開始期であり天皇陵が大規模な前方後円墳に治定されるのも崇神天皇以降である。崇神天皇、垂仁天皇景行天皇成務天皇の陵に治定される行燈山古墳宝来山古墳渋谷向山古墳佐紀石塚山古墳は考古学的にも3世紀後半から4世紀前半の築造である。

また3世紀中ごろは前述したように邪馬台国の卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女である倭迹迹日百襲姫命卑弥呼と同一視する説が根強い。百襲姫の墓に治定される箸墓古墳は卑弥呼の死期と重なる3世紀中頃の築造とされ卑弥呼の墓との説がある[1][2]。その近くにある纒向遺跡もまた邪馬台国の中心地として有力視される。なお日本書紀の年代を機械的に当てはめれば崇神天皇即位は紀元前97年である。
弥生時代末期

崇神天皇を3世紀中ごろの大王だとしてさらに遡ると歴史学的な証明は困難になる。大規模な埋葬文化の無い弥生時代末期になるため考古学的な考証に耐えうる陵墓も無くなる。日本書紀古事記でも初代神武天皇から十代崇神天皇の間の八代については系譜しか記録がないため実在性が乏しい(欠史八代)。

それでも敢えて年代を想定してみると神武天皇から崇神天皇は十代に渡って親子間での皇位継承なので神武天皇即位は前1世紀ごろになる。ただし先代旧事本紀の地祇本紀、天孫本紀に書かれた豪族の系図からは神武天皇から崇神天皇までおよそ7?8世代ということが示唆されている。これを考慮に入れるならば神武天皇即位は1世紀ごろとなる。後漢光武帝から倭奴国金印漢委奴国王印?)が授けられた頃である。

いずれにしても神武天皇は一世紀前後の人物ということになる。あくまでも実在すればということであり神話的色彩が強い神武天皇は伝説的人物とみなされるのが一般的である。なお日本書紀の年代では神武天皇即位は紀元前660年であり明治時代になって神武天皇即位紀元(皇紀)の元年とされた。戦時中の1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が催され国威発揚に利用された。
神話時代

実際の歴史に基づいているとすれば弥生時代末期の話と思われるが神話的修飾が極めて強い。
天孫降臨

はるか昔、葦原中国と呼ばれた地上を統治するために天上(高天原)から天照大神の孫である天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)が日向国(南九州)へ降臨したと言われる。瓊瓊杵尊が山の神の娘である鹿葦津姫を娶って生まれた子が海幸彦山幸彦である。山幸彦が海の神の娘である豊玉姫を娶って生まれた子が彦波瀲武??草葺不合尊(なぎさたけうがやふきあえずのみこと)である。

??草葺不合尊の子が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)、後に神武天皇と呼ばれる初代天皇である。こうして天と山と海の神の血を引く存在が生まれたとされる。
神武東征八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇は東に美しい国があると聞いて東征に出た。日向を出発し筑紫(北九州)へ向かい宇佐安芸国広島県)、吉備国岡山県)、浪速国(大阪市)を経て河内国草香邑(大阪府東大阪市)へ至る。河内国北部にあたる現在の大阪府東部は古代には河内湖という湖であり、ここまで船で来ることができた。


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