大和川
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さらに、『日本三代実録』の記述によると、貞観12年(870年)には河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど、国家事業として大和川治水が行われていた。
江戸時代初期

豊臣秀吉が日本全土を平定し、大坂に城下町を整備するのに合わせて淀川・大和川水系の治水工事も大がかりに行われ、断続的だった堤防はこの頃には連続のものになっていく。江戸時代には「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれ、堤防の管理・保全が行われた。

このころには大和川の流路は人為的に固定されてしまったため、上流からの土砂は逃げ場を失い、川底に堆積し、天井川となっていった。堤防決壊による洪水被害も起こりやすくなり、被害の復旧、堤防のかさ上げや川浚えなどに多額の費用と労力が費やされた。
江戸時代の川違え(付け替え)工事

度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、1703年元禄16年)10月、幕府はついに公儀普請を決定する。

1704年宝永元年)2月より付け替え工事が開始された。工事開始直後の同年3月には、前年より手伝普請を命ぜられていた播磨姫路藩主の本多忠国が死去したため、工事は一時中断され、姫路藩は手伝普請から外れることになった。しかし、同年4月に播磨明石藩主の松平直常和泉岸和田藩主の岡部長泰摂津三田藩主の九鬼隆久に手伝普請が命ぜられ、工事が再開された。なお、これら3藩の石高の合計は14万9千石(明石藩:6万石、岸和田藩:5万3千石、三田藩:3万6千石)で、石高15万石の姫路藩と同規模になる。

同年6月には大和高取藩主の植村家敬丹波柏原藩主の織田信休にも手伝普請が命ぜられ、これら5藩によって工区を分担するなど効率的に工事が進められた結果、工事開始からわずか8ヶ月後の同年10月、大和川は現在のようにの北へ向けて西流するようになった。

詳細は「大和川付替え」と「中甚兵衛」を参照
付け替えによる影響

大和川の旧流路にあたる中河内では河川敷の跡地や大きな池の跡地が新田(深野池は深野新田などに、新開池は鴻池新田などに)となり、とくに川床跡の砂地に適した木綿栽培や綿業がさかんになった。

一方、新しい大和川(「新大和川」)の通った現在の松原市大阪市南部の平野区などは多くの農地を失った上、もとあった川が新しい川に分断されて、上流側では大和川手前で水があふれ下流側では水量が減り、困窮する結果となった。かつて農業用水確保のために造られた依網池を地形の問題などで分断せざるを得ず、池は埋め立てや土砂の堆積などで消滅した。さらにすぐ下流の浅香山付近の高台を避けるために急激なカーブとなったため、付近は新たな氾濫地帯となった。

大量の土砂が河内平野や大坂に流れなくなり、大坂の港や河川は港湾機能を若干回復したが、代わりに堺に運ばれるようになり、北側の河口付近に大量の土砂が堆積していった。その結果、河口の南には新たな新田が開墾された。また、戎島付近の港にも土砂が堆積するようになり、堺の港湾都市としての地位は低下した。

1871年明治4年)9月、それまで堺の街の中を通っていた摂津国和泉国との国境が大和川に変更された。

2004年は大和川付け替え工事(1704年)から300周年にあたるため、様々な行事が行われた。
亀の瀬地すべり亀の瀬(柏原市峠)の地滑り対策地区詳細は「亀の瀬地すべり」を参照

大和川中流域・大阪府柏原市峠、奈良県北葛城郡王寺町藤井付近は小高い山に挟まれて川は渓谷状となっており、旧い地名から「亀の瀬渓谷」とよばれている。このあたりは古くからたびたび地すべりが起こっていた。明治以降では主に1903年(明治36年)、19311932年昭和6・7年)、1967年(昭和42年)に発生している。

1931年(昭和6年)から翌年にかけての地すべりは特に大規模となった。地すべり面の最低位置にあたる大和川の川床が36mほど隆起して流路をせき止めて天然ダムを形成してしまったため、同年7月には上流の王寺町内にて住宅が浸水する被害が出た。地すべりの影響で関西本線亀ノ瀬トンネルが崩壊したためこの区間は徒歩連絡とせざるを得なくなった。関西本線は該当区間を橋で大和川を越えて南岸の地すべりの影響のない位置にトンネルを掘って迂回するルート切り替えが行われた。

現在、地すべりを起こした斜面の崩落を防ぐために対策事業を行っている。1962年(昭和37年)に直轄施工区域に指定され、直轄工事が開始された。ひとたび地すべりが発生すると川がせき止められ、二次災害に繋がりかねないため、国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所の管轄のもと、大規模な対策事業と監視がおこなわれている。
奈良県内の流路変更大和川(奈良県安堵町・川西町付近、1985年撮影)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

中河内の川違えのような大規模な流路変更ではないものの、奈良県内においても流路変更工事が行われている。飛鳥川合流地点付近から東(上流)へ佐保川合流地点の少し西あたりまで、生駒郡安堵町磯城郡川西町の町境が現在の流路を縫うように曲がりくねっており、その境界がかつての大和川流路だった名残である。

この辺りは前述のほか、寺川など多くの支流が合流し、かつては大雨が降ると流量が増してたびたび氾濫を引き起こしていた。付近住民は県や政府に治水対策を訴えていたが、昭和10年代に曲がりくねっていた流路をまっすぐに変更する工事を開始し、戦争による中断を経て完成している。2017年現在も旧流路跡は周囲のように田畑としては開発されておらず、航空写真等でその痕跡を確認できる。


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