大友義鎮
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^ 発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1,000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であったことを裏づけている。
^ のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父。
^ 通説では、永禄5年(1562年)もしくは同6年(1563年)に臼杵の丹生島城に移ったとされているが、八木直樹は姓氏対立事件を機に義鎮が丹生島に移ったことに触れた弘治3年(1557年10月29日)のガスパル・ヴィレラの書簡(『耶蘇会士日本通信』)の記事以降の大友氏の関係文書を分析した結果、義鎮が府内ではなく臼杵において政務を行っていたと指摘し、さらなる史料不足から具体的年代は断定できないものの、弘治2年前後から大友氏の改易まで、天正7年(1579年)の田原親貫の反乱対応のために大友義統が2年ほど府内に移った(この期間も義鎮は臼杵か津久見に滞在していた)以外は一貫して臼杵に大友氏の本拠が置かれていたとしている[6]
^ 翌1575年に信長は従三位権大納言となり足利義昭と並び、さらに過去に義昭が望んでいた右近衛大将を兼ねることで上位に立っている。信長子息の信忠は1576年に出羽介および秋田城介鎮狄将軍と同等)となった。
^ 耳川の戦いは、「宗麟主導の下に、日向国にキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争」とされることが多い。しかし、天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が”家臣団の要請を受けて”乗り出していることから、耳川の戦いは先代宗麟ではなく、当主の義統主導によるものだった、とも言われている。合戦の敗因については「宗麟の姻戚であった総大将の田原親賢が、田北鎮周などの他重臣達の反発を招いた結果、大友氏内の統率が取れていなかった」とする説や、「親賢はキリスト教を嫌悪していたため、信徒や宣教師の支援が得られなかったことが原因」とする説もある。
^ 日本で初めて大砲を使ったのは、宗麟であったとされる。
^ この大砲は大友氏改易後も、江戸時代を通じて臼杵城本丸に配備されていた。
^ 同城に宗麟と共に立て籠もっていた家臣の志賀親守は、実は既に島津氏に内通していた。島津軍は丹生島城攻略を重視せず、本軍は府内に向けて進軍している。
^ 長宗我部氏はこれを固辞した。
^ 絹本著色、重要美術品。怡雲宗悦が天正15年(1587年)9月の年期を記した賛をもつ。描法から狩野派絵師の作だと推定される[18]
^ 「於西御前(阿西御前)・桑?」は清田鎮忠夫人「ジュスタ」(大友宗麟と奈多夫人の長女)を指す。『長崎名勝図絵』(1820年頃、饒田喩義編纂)には「阿西御前」とある。読みは「おにしごぜん」。「於西御前」の表記は『志賀家事歴』による[21][22][23]。『大友の末葉・清田一族』によると、ジュスタの墓碑は元「(大分県)清田村民家の後ろ、銀杏大木を印」として在った。のち、大分郡松岡村松岡山長興寺に移され、追って石塔が建てられ、「清芳院殿月峯自圓大姉」と法号が刻まれた[24]。号は本源院とも。
^ 宗麟は、奈多夫人がまだ服部右京亮の妻であった1550年頃に自分の側室にし、服部右京亮の存命中に奈多夫人が宗麟の子供を宿して出産したのがこの娘である。
^ 彼女の三女は妹の桂姫の洗礼名と同じ「マセンシア」[21]
^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林クインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。
^ 義鎮から偏諱を賜った蒲池鎮漣の子孫が代々「鎮」を通字として用いるようになった例など、一部の人物が義鎮亡き後に「鎮」の字を名前に用いているケースもあるが、こちらも別項に掲載する。
^ 姓は「うちくが」と読む。この家では元々「鎮」の字が用いられていた[25]ため、義鎮から賜っていない可能性もある。
^ 名の読みは「しげたか/しげのり」。河崎鑑実の従兄弟・能堯(よしたか)の子。豊臣秀吉九州征伐に際して参礼せずに除封処分を受けた。子孫は佐賀藩士として続く。
^ 子の鎮直は二階崩れの変前に殺害された小佐井大和守と同一人物とされているが、この当時の大友氏当主は義鑑なので鑑直の間違いではないかと思われる。また、1580年の龍造寺氏との戦いで鑑直が一旦捕虜となったという史実もある。
^ 高橋氏、戸次氏時代は統虎(「統」は宗麟の子・義統から賜った字)を名乗る。立花道雪の養子となり鎮虎に改名(父・鎮種または隠居後の宗麟から賜っているものと考えられる)。以後幾度も改名し最終的には宗茂となる。

出典^ 『大友宗麟』 - コトバンク
^ 大濱徹也 (2010年3月9日). “豊後の王フランシスコ大友宗麟”. 日本文教出版. 2020年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。
^ 『官報』3439号「授爵,叙任及辞令」1924年2月13日. (1924/2). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955587/3 
^ 『立花遺香』 P.107~108
^ “大友宗麟”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカジャパン. 2022年5月11日閲覧。
^ 八木直樹「十六世紀後半における豊後府内・臼杵と大友氏―城下町移転に関する再検討―」『ヒストリア』204号、2007年。 /所収:八木直樹 編『豊後大友氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻〉、2014年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-86403-122-6。 
^ 筑前国守護職補任は、足利義輝御判御教書(大友家文書)(九州国立博物館 2015, p. 29(写真掲載))
^ 大覚寺義俊副状(大友家文書)(九州国立博物館 2015, p. 30(写真掲載))
^ a b 神田千里「大友宗麟の改宗―その実態と背景―」『東洋大学文学部紀要』第68集史学科篇第40号、2014年。
^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」『政治経済史学』102号・103号、1974年。 
^ 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」『日本歴史』367号、1978年。 
^ 堀本一繁「龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長」『日本歴史』598号、1998年。 
^ 外山 1975, pp. 143?144.
^ 福川一徳 著「大友義統の家督相続をめぐっての一考察」、渡辺澄夫先生古稀記念事業会 編『九州中世社会の研究』1981年。 
^ 天正6年12月10日付毛利輝元宛島津義久書状(『大日本古文書』島津家文書之三・1423号)
^ 伊集守道「天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係」『九州史学』157号、2010年。 /所収:新名一仁 編『薩摩島津氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-103-5
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