大友義鎮
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しかし、父の死(二階崩れ)以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエル宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付き、天文22年(1553年)に一萬田鑑相[注釈 4]と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)、義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。

弘治3年(1557年)、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失った。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国秋月文種を滅ぼし、毛利氏を追い、北九州における旧大内領を確保することに成功した。

この頃に義鎮は本拠地を、豊後府内の大友館から丹生島城(臼杵城)に移している[注釈 5]。現在は陸続きとなっているが、当時の丹生島は三方を海に囲まれ、西方は干潮時にだけ陸続きとなる天然の要害であった。この本拠地移動に関しては、北の毛利氏からの攻撃を警戒し南遷した、日向国経営のために南遷した、家臣団の反乱に備えた、府内の寺社仏閣や商人などの旧勢力の影響から逃れつつ新しい経済都市を形成しようとした、など諸説ある。

大内氏の領国を完全併呑することはできなかったが、義鎮は北九州一円を実質的に支配した。天文23年(1554年)に13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど、従来から大友氏は足利将軍家との関係を強化していた。
九州探題臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ)

永禄2年(1559年)、義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前国両国の守護[7]に任ぜられ、同年11月には九州探題に補任された[8]。またさらに、大内氏家督(大内の当主を義鎮が大内一族から選んで決めてもよいし、義鎮自身が大内の当主になってもよい、という権利)それに伴う周防・長門の守護の資格(九州から渡海し、中国地方に攻めこんで領有しても良いという許可)も得た。これにより実効支配だけではなく、九州特に北九州の領有と支配に幕府の権威が与えられ、さらに毛利氏を追捕する権利を持ち、毛利氏に味方し大友氏に逆らう者は将軍の敵と認定される形となった。

永禄3年(1560年)、左衛門督に任官された。これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。また、3月には足利義輝より義鎮に対する御内書に、父義鑑の代に足利義晴より下賜された桐紋について、「萬松院殿(義晴)代紋を遣わさる由、目出たく候。一続(一族)と為す可く其の旨存じ可く候」とあることから朝廷や足利将軍家に多大な献金を行っていたことと、その信頼を受けていたことを察することができる。

このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を勝ち取った。

しかし、永禄5年(1562年)、門司城の戦いで毛利元就に敗れ、同年に出家し休庵宗麟と号した。永禄5年9月13日には、宇佐八幡宮への寄進を表明して、毛利氏に対する戦勝を祈願したが、この時、毛利氏の行為を具体的侵攻であるのみならず、八幡大菩薩の神敵と非難している。即ち、世俗の次元に加えて信仰の次元においても敵の不正義・味方の正義を強調している。これは武士や平民を動員する上でのいわゆる理論武装として、前述の幕府や朝廷の権威・御墨付きだけでは足りず、宗教上の大義を掲げる必要があったからであると推測されている[9]

その後も足利将軍家には多大な援助を続けた。永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられた。翌永禄7年(1564年)には義輝に毛利氏との和睦の調停を依頼して、北九州の支配権の確立・権益の確保を実現するなど、幕府との関係は密であった[10][11]

京都の幕府では永禄8年(1565年)に足利義輝が家臣の謀反により没し、永禄11年(1568年)に弟の足利義昭が新将軍となった。毛利氏は山陰地方の仇敵・尼子氏を滅ぼしたのち、再び北九州へ食指を伸ばすようになり、和睦は反故となった。永禄10年(1567年)、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起し、これに大友氏重臣の高橋鑑種も加わるという事態が起こったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。この毛利氏との戦闘の時期に宗麟は、キリスト教宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請している。この際に「自分はキリスト教を保護する者であり、毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破るために大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。永禄12年(1569年)、肥前国で勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信を制するため、自ら軍勢を率いて筑後・肥前へ討伐に向かうが、毛利氏が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退する。

義鎮は多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与えた一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の一族である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を九州から撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。

経済面では支配下の博多やの豪商のみならず、豊後府内の豪商仲屋顕通・仲屋宗越父子を厚遇して御用商人化し、秤と分銅の衡量権益を授け、対外貿易の実務も担わせた。仲屋宗越は臼杵城下の唐人町懸ノ町に広大な屋敷地の保有を認められ、のちには豊臣秀吉からも厚遇されて京都方広寺大仏殿(京の大仏)造立時に奔走することになる。

義鎮は日本の戦国大名では最も早い天正年間に、カンボジア国王との善隣外交関係の締結に成功している。義鎮がカンボジアに派遣した交易船は、帰路の天正元年(1573年)8月に銀子・鹿皮等を積んで薩摩国の港(阿久根港)に大風避難寄港し、以降消息を絶った。また、カンボジア国王が天正7年(1579年)に義鎮に向けて派遣した交易船には、鏡匠・象簡・象が乗り込み、銅銃・蜂蝋が積まれていたが、前年耳川の戦いで優位に立った島津義久による経済封鎖によって抑留された。
衰退

元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻したが龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ、弟の親貞が戦死した。


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