大友克洋
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プライベートムービーを作ることで、映画制作のプロセスを自分なりに勉強した[4]

1983年公開のアニメ映画『幻魔大戦』(りんたろう監督)で、キャラクターデザイナーとして初めてアニメーション作品に参加[8]。漫画とアニメとの違いを肌で感じ、この経験をきっかけにアニメ制作に興味を持つ[4][12]

1986年公開のオムニバス映画『迷宮物語』の中の一編「工事中止命令」で、初めて監督を務める[13]。『幻魔大戦』の後、アニメ制作会社マッドハウス丸山正雄プロデューサー(当時)から「短編を1本作ってみないか」と誘われ、二つ返事で引き受けた[13][14]

1988年、自身の漫画をアニメ化した劇場アニメーション映画『AKIRA』で長編作品を初監督[8]。1991年には『ワールド・アパートメント・ホラー』で商業実写映画を初監督する[8]。以降、漫画よりも映画の分野に活動の軸足を移し、オムニバス映画『 MEMORIES』(1995年)、長編アニメ『スチームボーイ』(2004年)、実写映画『蟲師』(2007年)などの監督作品を発表する[11]

2012年、自らプロデューサーとなって、東日本大震災の復興支援を兼ねた初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催[11]。3000枚もの原画が展示される漫画家としては世界最大規模の原画展となり、収益の約3割を被災した地元団体に寄付した[8]

2013年公開のオムニバス映画『SHORT PEACE』の中の一編『火要鎮』で監督を務める。同作はアヌシー映画祭公式セレクションとともに、アカデミー賞(アメリカ)へのプレノミネートを果たした。

2015年、アングレーム国際漫画祭で日本人として初めて最優秀賞を受賞する。それまでにも日本の漫画家が作品賞や特別賞を受賞したことはあったものの、大賞は大友が初めて[15]

2019年Anime Expo 2019にて新作映画『ORBITAL ERA』の制作、代表作『AKIRA』の再アニメ化が発表される[16]

2022年1月より、講談社からデビュー以来の単行本未収録作品を含む全作品を雑誌掲載時の状態のまま収録する大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」の刊行が開始される[17]
作風と影響2016年アングレーム国際漫画祭にて
初期の作風

大友の初期の作品はアメリカン・ニューシネマの影響が強く、ロックジャズドラッグといった70年代の文化を背景とした日常風景を淡々と描くものが多かった[18]

コマ割りなどには敬愛する黒澤明サム・ペキンパーの影響が強い[19]

緻密に描き込まれているにもかかわらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら劇画のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された[9]
「大友以前・大友以後」

大友は、戦後に漫画において描かれてきた物語を解体し語りなおす作家として登場した[20][21]。『ショート・ピース』刊行以後、日本の漫画全体の画風、手法が大きく変わったため、漫画の表現史を画するものとして「大友以前、大友以後」という言葉がしばしば用いられる[22]。この言葉を用いた一人である米澤嘉博は、手塚治虫によって体系化された、記号化された絵を用いて意味のあるコマの連続で物語を表現するという漫画の手法に対して、事態をリアルに一枚の風景として描き出し、自在に変化するカメラワークによる画面の連続で作品を構成する大友の手法[注 4]を、「非手塚的手法」と呼んだ[23]。なお手塚本人は、劇画ブーム終焉の要因を大友作品に帰するなど、大友を極めて高く評価していた[注 5]。大友の作品ではしばしばキャラクターのいない、風景だけが大写しにされたコマが続けて描かれるが、風景を物語の説明的な背景として使うのではなく「風景だけで何かを語らせる」というやり方は、それ以前の漫画にはない新しい手法であった[注 6]

ササキバラ・ゴウは、漫画の絵から説明的な意味・文脈を取り去り、人物も風景も同じ質感を持った単なる「もの」として写実的・立体的に描く大友の表現が、漫画の作品世界の中で均質な空間を表現することを可能にしたと指摘している[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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