大友克洋
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中学時代に石ノ森章太郎のマンガ家入門を読んだのをきっかけに、本格的に漫画家を志すようになる[4]

宮城県佐沼高等学校に入学[1]。その頃から映画に興味を持ち始め、一時漫画から離れて映画漬けの日々を送る[6]。またイラストにも興味を持つようになり、将来はプロのイラストレーターか映画監督になりたいと思うようになる[4]。しかし、一人立ちを考えて漫画を描き始め、1971年末に処女作『マッチ売りの少女』を執筆[6]手塚治虫の雑誌『COM』や『りぼん』に数度投稿を行う[7]。高校を卒業すると上京し、以前友人に紹介されて漫画を見せたことのある双葉社の編集者に連絡を取り、採用される[4]

1973年、『漫画アクション』(双葉社)にて「銃声[注 2]」でプロの漫画家としてデビュー[8]。以後、『漫画アクション』の本誌・増刊で若者の日常を描いた短編作品を発表。次第にニューウェーブの作家として一部の漫画読者からは知られた存在になって行く[9][10]

1978年、描きためておいた「ヘンゼルとグレーテル」を『ヤングコミック』(少年画報社)に持ち込み、掲載される。以降、『アクション』以外の漫画雑誌やSF雑誌へと活躍の場を広げ、西洋に題材をとった話やSFなどを発表するようになる[10]

1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行[11]。一般に名前が知られるようになり、他の「ニューウェーブ」作家らとも交流を持つようになる。

1980年、『アクションデラックス』に『童夢』、『漫画アクション』に『気分はもう戦争』(原作:矢作俊彦)を連載開始。

1982年、『週刊ヤングマガジン[注 3]』にて『AKIRA』( - 1993年)の連載を開始。この作品で一気にメジャー作家となる。漫画のヒットにより、約500万円の予算で1時間ほどの16mmフィルムの実写映画『じゆうを我等に』を自主制作。プライベートムービーを作ることで、映画制作のプロセスを自分なりに勉強した[4]

1983年公開のアニメ映画『幻魔大戦』(りんたろう監督)で、キャラクターデザイナーとして初めてアニメーション作品に参加[8]。漫画とアニメとの違いを肌で感じ、この経験をきっかけにアニメ制作に興味を持つ[4][12]

1986年公開のオムニバス映画『迷宮物語』の中の一編「工事中止命令」で、初めて監督を務める[13]。『幻魔大戦』の後、アニメ制作会社マッドハウス丸山正雄プロデューサー(当時)から「短編を1本作ってみないか」と誘われ、二つ返事で引き受けた[13][14]

1988年、自身の漫画をアニメ化した劇場アニメーション映画『AKIRA』で長編作品を初監督[8]。1991年には『ワールド・アパートメント・ホラー』で商業実写映画を初監督する[8]。以降、漫画よりも映画の分野に活動の軸足を移し、オムニバス映画『 MEMORIES』(1995年)、長編アニメ『スチームボーイ』(2004年)、実写映画『蟲師』(2007年)などの監督作品を発表する[11]

2012年、自らプロデューサーとなって、東日本大震災の復興支援を兼ねた初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催[11]。3000枚もの原画が展示される漫画家としては世界最大規模の原画展となり、収益の約3割を被災した地元団体に寄付した[8]

2013年公開のオムニバス映画『SHORT PEACE』の中の一編『火要鎮』で監督を務める。同作はアヌシー映画祭公式セレクションとともに、アカデミー賞(アメリカ)へのプレノミネートを果たした。

2015年、アングレーム国際漫画祭で日本人として初めて最優秀賞を受賞する。それまでにも日本の漫画家が作品賞や特別賞を受賞したことはあったものの、大賞は大友が初めて[15]

2019年Anime Expo 2019にて新作映画『ORBITAL ERA』の制作、代表作『AKIRA』の再アニメ化が発表される[16]


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