大原麗子
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そのため脚本家演出家と口論することがしばしばあり、それが原因で関係者に敬遠されて仕事のオファーがなくなったこともある[20]

NHK大河ドラマ春日局』に主演したとき、春日局が臨終間際の徳川秀忠の正室、お江与と語り合うシーンで、橋田壽賀子作の脚本にはなかった「女(おなご)は強うございますから」というセリフを書き加えさせた。(大河ドラマ春日局・第37回「先立つ妻に」)

売れていき地位が上がるにつれ、映画やドラマのスタッフに対して脚本と演出の注文を付けるようになり、それが年を重ねるごとにエスカレートしたという。それが原因となり、一時はどこからも出演オファーがなかった。

死後、遺品の中には多くの台本があり、台本には場面ごとに細かく立ち位置がメモされ、セリフも自分なりに変更されていた。弟・政光は、「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述べている。また弟によれば、1998年に大河ドラマ『徳川慶喜』でナレーションに挑戦した後、宮ア駿監督から声優のオファーを貰うも、「ごめんなさい。私は女優であって、声優ではありません。せっかくのお話ですが、お断りします」と返事をしたと言う。「自分はあくまで女優として生きたい」と言う信念があったからだと言う。
交友関係
高倉健とのエピソード

1965年に18歳で高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズで初共演をして以来、高倉を尊敬する兄として慕っていた。

『網走番外地 北海編』(1965年)など多くの作品で高倉健と共演している。

1986年に自宅を新築した時、高倉から新しい電話番号をプレゼントされ、電話番号の末尾4桁は「0015(レイコ)」となっていた。

高倉から万年筆をプレゼントされ、その万年筆には「0」から始まるシリアル番号が刻印されていた。「0」は高倉が所持していて、「1」は大原に贈られた。大原は「健さんに1番に選ばれた」と言ってとても喜んでいた。

1992年にNHKのテレビドラマ『チロルの挽歌』で主演・高倉健の妻役(ヒロイン)として高倉と共演。ギャラクシー賞奨励賞を受賞。大原はこの作品を「生涯の代表作」と自負していた。

後年大原が亡くなった日、大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていた。また大原の遺品の中から、高倉の記事だけをまとめたスクラップが発見された。そのスクラップには大きな文字で「好きです。尊敬しています」と書かれていた。
渡瀬・森との2度の夫婦生活

1970年(昭和45年)6月公開の『三匹の牝蜂』で初共演した俳優・渡瀬恒彦とすぐに意気投合し[12]1973年(昭和48年)9月に渡瀬と結婚したが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚。1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一と再婚したが、1984年(昭和59年)に破局に至った。森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返った[30]。渡瀬、森のいずれとの間にも子供はいない(元夫は両者とも大原との離婚後、再婚相手との間に子供をもうけている)。

渡瀬と結婚していた頃、渡瀬の子供を身籠ったが、子宮外妊娠だったため胎児が死亡した。渡瀬と離婚したあとも、渡瀬のことが好きだったという。渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。

森と結婚していた頃、子供を欲しがっていた森に大原の弟・政光が「離婚して他の女性と子供を作ってください」と頼み、約一年後、森は大原との離婚を決意したという。なお、2019年に政光は、大原が結婚から2年たって森の子供を身籠ったが、仕事を優先させて堕胎したと告白した[31]

大原の死去後のお別れ会には森と渡瀬の元夫2人も出席した[32]

最後のテレビドラマ出演は、かつての夫である渡瀬との共演で、2004年の「十津川警部シリーズ」『東北新幹線「はやて」殺人事件』であった。
その他の仲の良い芸能人

森光子浅丘ルリ子(姉と慕っていた[31])。晩年は自宅療養中の孤独を癒すために、昼夜を問わず友人に長電話をかけており、大原の「お別れの会」では森は弔辞の中で「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と述べた。同じく浅丘も弔辞の中で、「大原からの一方的な長電話に苦しめられた」と述べた。

森や浅丘と親交があった美空ひばりにはデビュー当時から公私共に妹のように可愛がられていて互いに「麗子」「お姉さん」と呼び合っていた。

鹿沼絵里とは、ドラマで共演してから仲良くなり、鹿沼の結婚式では大原麗子・森進一夫妻が媒酌人をした。親友であり、大原からマネージャーになってほしいと頼まれたこともある。

1999年の活動休止後も以前から親交のあった橋田壽賀子や弟のように可愛がられた山下真司とは不定期ながらも連絡を取り合っていたという。山下は大原が逝去直後に号泣しながら各マスコミのインタビューに応じている。

大谷直子とも仲がよかった[33]
「孤独死」との報道への反論

大原のデビュー当時からのマネージャーで公私ともに親しく、1999年から5か月の間、大原と同居し、死の前年の2008年まで親しく連絡を取り合っていた佐藤嘉余子は、大原の死去をあらわす際に「孤独死」という言葉がメディアで使われていることに疑問を呈し、『離婚を繰り返して、仲の良かった人々も離れていき、1人寂しく死んだと』いう見方について異なる見解を述べて反論している[34]

佐藤によると、大原が亡くなる6年ほど前に同居していた際に、大原の衣裳部屋の壁にスペイン人詩人であるサン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネ)の『孤独な鳥の、5つの条件』という詩が貼ってあり、大原はその詩を彼女は毎日眺めていたという[34]。一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ
二つ 孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない
三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける
四つ 孤独な鳥は決まった色をもたない
五つ 孤独な鳥はしずかに歌う ? サン・ファン・デ・ラ・クルス[34]

佐藤によると、この詩は大原の生き様そのもので、大原が亡くなる2年ほど前から、大原は「カヨさん、私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と言うようになっており、大原は「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」という見解を示している[34]


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