大原麗子
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森光子浅丘ルリ子(姉と慕っていた[31])。晩年は自宅療養中の孤独を癒すために、昼夜を問わず友人に長電話をかけており、大原の「お別れの会」では森は弔辞の中で「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と述べた。同じく浅丘も弔辞の中で、「大原からの一方的な長電話に苦しめられた」と述べた。

森や浅丘と親交があった美空ひばりにはデビュー当時から公私共に妹のように可愛がられていて互いに「麗子」「お姉さん」と呼び合っていた。

鹿沼絵里とは、ドラマで共演してから仲良くなり、鹿沼の結婚式では大原麗子・森進一夫妻が媒酌人をした。親友であり、大原からマネージャーになってほしいと頼まれたこともある。

1999年の活動休止後も以前から親交のあった橋田壽賀子や弟のように可愛がられた山下真司とは不定期ながらも連絡を取り合っていたという。山下は大原が逝去直後に号泣しながら各マスコミのインタビューに応じている。

大谷直子とも仲がよかった[33]
「孤独死」との報道への反論

大原のデビュー当時からのマネージャーで公私ともに親しく、1999年から5か月の間、大原と同居し、死の前年の2008年まで親しく連絡を取り合っていた佐藤嘉余子は、大原の死去をあらわす際に「孤独死」という言葉がメディアで使われていることに疑問を呈し、『離婚を繰り返して、仲の良かった人々も離れていき、1人寂しく死んだと』いう見方について異なる見解を述べて反論している[34]

佐藤によると、大原が亡くなる6年ほど前に同居していた際に、大原の衣裳部屋の壁にスペイン人詩人であるサン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネ)の『孤独な鳥の、5つの条件』という詩が貼ってあり、大原はその詩を彼女は毎日眺めていたという[34]。一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ
二つ 孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない
三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける
四つ 孤独な鳥は決まった色をもたない
五つ 孤独な鳥はしずかに歌う ? サン・ファン・デ・ラ・クルス[34]

佐藤によると、この詩は大原の生き様そのもので、大原が亡くなる2年ほど前から、大原は「カヨさん、私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と言うようになっており、大原は「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」という見解を示している[34]

佐藤は、大原が亡くなる前年の11月大原が自宅で転倒したころから、急に連絡が途絶えたが、大原の死の直後、大原の自宅の冷蔵庫を開けるとお中元で送られてきたスイカの切れ端が2個半だけ残っており、それを見た際に、佐藤は寂しさや悲しさを感じる一方で、「ああ、麗子さんは天寿を全うしたんだな」とも思ったともいう[34]。そして、「体力の限界を悟って、『スーッと消えていく』という願いを本当に実行しようとしていた。だから冷蔵庫の中に、もらいもののスイカ以外に自分で用意したような食料がなかったのだと思います。『孤高』を求めた麗子さんらしい旅立ちでした。」と語っている[34]

演出家のテリー伊藤は「日本で“小悪魔”が最も似合う女優。マスコミは孤独死って書いてるけど、彼女の実績をみてほしい」「いくつになっても小悪魔というのは、加賀まりこと大原さんの2人だけです」と大原の実績を強調し、孤独死との見方に反論している[35][36]

また、かとうかず子も「変な言い方ですが、とても女優さんらしい亡くなりかた」とし、さかもと未明は「森進一さんとの離婚で『男が2人いた』というのを (自分は子供ながらも) 仕事をするとはこういうことなんだなと感じた。輝いて大輪の花を咲かせて生ききった方だと思う」と大原を讃えている[36]

ケラリーノ・サンドロヴィッチも自身のブログで「20代後半に難病指定のギランバレエ症候郡〔ママ〕に侵されて以来、表には出さなかったが、常に死を意識していただろう大原さんの、30代の頃のいくつかのインタビューを見ると、彼女がとっくに覚悟を決めていたことがわかる。」とし、森進一との離婚以来「30年近く独り身を通したことからも、大原さんの、『ひとりで』女優という生き方をまっとうし病気と闘う生き方への美学が伝わってくるし、それは大原さん自身の選択だ」、「すべてを達成して満足の果てに死んでゆく人間なぞ滅多にいないのだとすれば、大原麗子さんの生き様は素晴らしかったに違いなく、あの最期は「理想的」とは言わないまでも、決して彼女にとって悲しむべき終わりではなかった」と思う、としている[37]

大原自身も自らの仕事への姿勢について、男はつらいよシリーズの出演作『男はつらいよ 寅次郎真実一路』の会見で「最近は遺作だなと思ってやってるの。いつ死んでもいいと。自分らしく自由に生きたい。仕事は限界のない自己闘争。心も体も自由に」と述べていた[36]
世田谷区の自宅について

森進一と離婚した2年後の1986年世田谷区岡本3丁目に150坪・床面積260平方メートル・3億円の豪邸を建て、68歳の母と一緒に暮らし始めた。この地に家を建てたのは、憧れの人物・高倉健の自宅に近かったからとのこと。子供の頃苦労して育ったため、働いて立派な家を建てることは長年の夢だったという。

仕事が少なくなったため住んでいた世田谷区の豪邸の維持費(固定資産税・年間89万円、光熱費・毎月数万円など)に苦しんだ大原は、貴金属を売って維持費をつくるようになった。

2009年3月頃、長年同居してきた介護が必要な91歳の母を介護施設に預け、一人暮らしを始めた。大原は自宅を売却してマンションへ引っ越すことを考えていたが、高額であるためなかなか買い手がみつからなかった。

大原が亡くなった後の2015年10月、弟が管理していた大原の豪邸が2億5千万円で売却された。高額であるため、大原の死後6年間買い手がなかった物件だった。売却された豪邸は2019年現在取り壊され、別の建物が建っている。
その他

麻雀好きで、徹夜で打つこともあった。

子供に恵まれなかったため弟の息子(甥)をとても可愛がり、甥が書いた絵を額に入れて飾っていた。甥と月に一、二回は一緒に食事をしていた。
出演
テレビドラマ

幸福試験
(1964年 - 1965年、NHK

青春ホームドラマ / チコといっしょに (1965年、NTV

弁慶 (1965年10月 - 1966年3月、NTV)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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