大原麗子
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かつて映画で共演した夏木陽介は、「話し相手になってあげればよかった…」と追悼のコメントを寄せた[27]

レイコの歯医者さん』『徳川慶喜』などで組んだ脚本家の田向正健は、死去に際して、「ユニークで、年齢というものをあまり感じない人だった。(…)最近はいわゆる俳優というものが日常のドラマからいなくなっている。日本を代表する女優の一人がまた消えたかという感じがする」とのコメントを出した[28]
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出典検索?: "大原麗子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年3月)

幼少時代・家族

父(1903?93)は、
東京文京区の実家で老舗の和菓子屋「田月堂」を経営していた。

母・俊子(1917?2012)生涯を通じて麗子の心の支えだった。麗子が女優を目指したきっかけは、母に恩返しをして楽をさせたかったため。2人でよく旅行に行った。麗子は晩年まで母親のことを気にかけていた[21]森進一との離婚後、父親を憎み、大原姓に戻りたくなかった麗子は、家庭裁判所を通じ、母方の飯塚姓にした。[29]

弟・大原政光(1949?)3歳年下。獨協大学卒業後、住友銀行に入社。その後三井銀行と合併して三井住友銀行となった後に同行を定年退職後、麗子の個人事務所の社長となる[21]。それ以前より麗子のドライバーなどもしており、公私ともに麗子をもっとも良く知る人物の一人。

弟が生まれると母の愛情を独り占めしたい大原は、母の母乳を吸い始めた。母は止めさせるために乳首に唐辛子を塗ったが、それでも我慢して吸い続けた。子供の頃、ケンカが強くて男みたいで、頼りがいがあったという。

幼い頃から父から暴力をふるわれ、父に殴られて鼻の骨の右側がやや盛り上がった。大原は女優になったあと、そこが目立たないように写真の撮られ方を気にしていた。8歳(小学2年生)の時に父の浮気が原因で両親が離婚し、自身は母に引き取られ、弟は父に引き取られた。

両親の離婚後、東京・赤羽にある母の実家に母と戻った大原だったが、その後も自身は父と弟の住む家を毎週のように訪ねていた。一方、弟も大原と母の住む家を訪れ、弟が帰る時は3人で泣いていたという。大原は父子家庭だった弟とは異なり、母子家庭で育ったため生活は豊かではなかったが、母は大原に愛情を注ぎ、バレエ教室に通わせた。
脚本や演出へのこだわり

研究熱心な“演技の虫”であり、台本のセリフを自分なりに書き換えたりしていた。そのため脚本家演出家と口論することがしばしばあり、それが原因で関係者に敬遠されて仕事のオファーがなくなったこともある[20]

NHK大河ドラマ春日局』に主演したとき、春日局が臨終間際の徳川秀忠の正室、お江与と語り合うシーンで、橋田壽賀子作の脚本にはなかった「女(おなご)は強うございますから」というセリフを書き加えさせた。(大河ドラマ春日局・第37回「先立つ妻に」)

売れていき地位が上がるにつれ、映画やドラマのスタッフに対して脚本と演出の注文を付けるようになり、それが年を重ねるごとにエスカレートしたという。それが原因となり、一時はどこからも出演オファーがなかった。

死後、遺品の中には多くの台本があり、台本には場面ごとに細かく立ち位置がメモされ、セリフも自分なりに変更されていた。弟・政光は、「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述べている。また弟によれば、1998年に大河ドラマ『徳川慶喜』でナレーションに挑戦した後、宮ア駿監督から声優のオファーを貰うも、「ごめんなさい。私は女優であって、声優ではありません。せっかくのお話ですが、お断りします」と返事をしたと言う。「自分はあくまで女優として生きたい」と言う信念があったからだと言う。
交友関係
高倉健とのエピソード

1965年に18歳で高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズで初共演をして以来、高倉を尊敬する兄として慕っていた。

『網走番外地 北海編』(1965年)など多くの作品で高倉健と共演している。

1986年に自宅を新築した時、高倉から新しい電話番号をプレゼントされ、電話番号の末尾4桁は「0015(レイコ)」となっていた。

高倉から万年筆をプレゼントされ、その万年筆には「0」から始まるシリアル番号が刻印されていた。「0」は高倉が所持していて、「1」は大原に贈られた。大原は「健さんに1番に選ばれた」と言ってとても喜んでいた。

1992年にNHKのテレビドラマ『チロルの挽歌』で主演・高倉健の妻役(ヒロイン)として高倉と共演。ギャラクシー賞奨励賞を受賞。大原はこの作品を「生涯の代表作」と自負していた。

後年大原が亡くなった日、大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていた。また大原の遺品の中から、高倉の記事だけをまとめたスクラップが発見された。そのスクラップには大きな文字で「好きです。尊敬しています」と書かれていた。
渡瀬・森との2度の夫婦生活


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