大原麗子
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死因は不整脈による脳内出血であると診断された[22]

8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子石井ふく子浅丘ルリ子らが発起人となり[23]、元夫である渡瀬恒彦森進一のほか、八千草薫池内淳子徳光和夫加藤和也堺正章井上順松原智恵子音無美紀子浅野ゆう子中村雅俊らが参列。大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かした[24]

また高倉健は、参列こそしなかったものの、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていたことが2010年8月に報じられた。その後も親族に定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという[25][26]。墓所は世田谷区の妙壽寺戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。

2011年7月、前田忠明著・大原政光監修のノンフィクション『大原麗子 炎のように』が出版された。
大原への追悼

かつて映画で共演した夏木陽介は、「話し相手になってあげればよかった…」と追悼のコメントを寄せた[27]

レイコの歯医者さん』『徳川慶喜』などで組んだ脚本家の田向正健は、死去に際して、「ユニークで、年齢というものをあまり感じない人だった。(…)最近はいわゆる俳優というものが日常のドラマからいなくなっている。日本を代表する女優の一人がまた消えたかという感じがする」とのコメントを出した[28]
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出典検索?: "大原麗子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年3月)

幼少時代・家族

父(1903?93)は、
東京文京区の実家で老舗の和菓子屋「田月堂」を経営していた。

母・俊子(1917?2012)生涯を通じて麗子の心の支えだった。麗子が女優を目指したきっかけは、母に恩返しをして楽をさせたかったため。2人でよく旅行に行った。麗子は晩年まで母親のことを気にかけていた[21]森進一との離婚後、父親を憎み、大原姓に戻りたくなかった麗子は、家庭裁判所を通じ、母方の飯塚姓にした。[29]

弟・大原政光(1949?)3歳年下。獨協大学卒業後、住友銀行に入社。その後三井銀行と合併して三井住友銀行となった後に同行を定年退職後、麗子の個人事務所の社長となる[21]。それ以前より麗子のドライバーなどもしており、公私ともに麗子をもっとも良く知る人物の一人。

弟が生まれると母の愛情を独り占めしたい大原は、母の母乳を吸い始めた。母は止めさせるために乳首に唐辛子を塗ったが、それでも我慢して吸い続けた。子供の頃、ケンカが強くて男みたいで、頼りがいがあったという。

幼い頃から父から暴力をふるわれ、父に殴られて鼻の骨の右側がやや盛り上がった。大原は女優になったあと、そこが目立たないように写真の撮られ方を気にしていた。8歳(小学2年生)の時に父の浮気が原因で両親が離婚し、自身は母に引き取られ、弟は父に引き取られた。

両親の離婚後、東京・赤羽にある母の実家に母と戻った大原だったが、その後も自身は父と弟の住む家を毎週のように訪ねていた。一方、弟も大原と母の住む家を訪れ、弟が帰る時は3人で泣いていたという。大原は父子家庭だった弟とは異なり、母子家庭で育ったため生活は豊かではなかったが、母は大原に愛情を注ぎ、バレエ教室に通わせた。
脚本や演出へのこだわり

研究熱心な“演技の虫”であり、台本のセリフを自分なりに書き換えたりしていた。そのため脚本家演出家と口論することがしばしばあり、それが原因で関係者に敬遠されて仕事のオファーがなくなったこともある[20]


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