大原麗子
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その後も「夜の青春シリーズ」をはじめ、高倉健の『網走番外地』シリーズ、千葉真一主演作品での助演等、数々の映画に出演したが、この時期の東映は不良性感度映画を推進していたため[7]、大原の役は酒場ホステスパンスケ役が多かった[2][5][8]。他社出演した『ドリフターズですよ! 前進前進また前進』(東宝)でもお色気担当だった[9]。1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍[10][11]。ただ、1972年2月14日に東京プリンスホテルであった渡瀬恒彦との婚約発表を伝える『スポーツニッポン』1972年2月15日の記事に「東映の渡瀬恒彦と同じく東映女優の大原麗子」と書かれており[12]、同席した岡田茂東映社長が「二人とも我が社の看板スターです。今後ともよろしく」と報道陣に話した[12]

以降テレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ[13]、映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した[2][14]

その演技力を買われて主演した橋田壽賀子脚本の『春日局』では大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)を叩きだした[14]。橋田をはじめ、石井ふく子からも演技力を高く評価されていた。

東映を退社してからの所属芸能事務所は長年「オフィス・アール」であったが、晩年には「ワンポイント」に属していた。

映画『男はつらいよ』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。
バラエティ番組・テレビCMへの出演

バラエティ番組への出演はさほど多くなかったものの、1994年(平成6年)5月19日放映の『ダウンタウンDX』(よみうりテレビ)では、本人たっての希望で、うさぎの着ぐるみを着たり、禿げかつらをつけてコントをしたり、さらに番組内の一コーナー「ダウンタウンの社会見学」[注釈 2]ではセーラー服姿でダウンタウンの2人に同行した。

1996年4月15日フジテレビ系列で放送がスタートしたバラエティ番組『SMAP×SMAP』の名物コーナー「BISTRO SMAP」の第1回のゲストが大原であり、大原の死去から1週間後の2009年8月10日に、大原への追悼の意を込めて同回が再放送された。この時の映像は、のちに番組内でも幾度となく紹介された[注釈 3]

テレビCMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっと頬を膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」という台詞で知られる、サントリーレッドのCMは[注釈 4]、その言葉どおり多くの人に長く愛され[14]1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された[2]。歌手としても、数枚のレコードをリリースした。明石家さんま清水ミチコによく声真似をされた。
病歴
ギラン・バレー症候群

1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症[15]1999年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。その後、休止中にギラン・バレー症候群の主治医が亡くなった。

2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った[16]。この転倒は、同症候群の影響で身体のバランスを崩したものとされていたが[17]、同じくギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や専門医はこの病が再発することは滅多にないとして再発に懐疑的であり[15][18]、大原の実弟も再発は姉の思い込みだったのではないかと否定的である[19]
その他手術と活動休止

さかのぼって47歳の時には乳がん手術を受けた[16]

1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまったため、主演が決まっていた映画『天城越え』(第2作)を降板した[20]。その後、再手術をして可能な限り元に戻したが、自宅に引きこもるようになった。同年11月、ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、芸能活動を休止した。

大原の死後、弟・政光がテレビ番組で、「姉は左目のまぶたが一重で、メイクのとき自分で二重まぶたにしていた」と告白した。
晩年の生活

活動休止中も現場復帰に向けて、自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいたという。

晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって、公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていったが、俳優仲間にはたびたび電話をかけ、ドラマを観た感想などを語っていたという。

2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語った[21]
死去

2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。62歳だった。行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断された[22]

8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子石井ふく子浅丘ルリ子らが発起人となり[23]、元夫である渡瀬恒彦森進一のほか、八千草薫池内淳子徳光和夫加藤和也堺正章井上順松原智恵子音無美紀子浅野ゆう子中村雅俊らが参列。大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かした[24]

また高倉健は、参列こそしなかったものの、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていたことが2010年8月に報じられた。その後も親族に定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという[25][26]。墓所は世田谷区の妙壽寺戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。

2011年7月、前田忠明著・大原政光監修のノンフィクション『大原麗子 炎のように』が出版された。


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