戦争は、デンマーク=ノルウェーによるホルシュタイン=ゴットルプ、ザクセン=ポーランド=リトアニアによるスウェーデン領リヴォニア (en) そしてロシアによるスウェーデン領イングリアに対する三方面からの攻勢で始まった。スウェーデンはトラヴェンタールとナルヴァでデンマークとロシアの攻撃を撃退し、アウグスト2世への反攻ではリトアニア、ポーランドからザクセンへと追撃し、アルトランシュテット条約で敗北を認めさせ、彼を退位させた。 一方、ピョートル1世はスウェーデンのバルト地方を奪取し、この地にサンクトペテルブルクを建設してバルト海への出口を固めた。 カール12世はピョートル1世と対するべく、ザクセンからロシアへ戻ったが、ロシア遠征はポルタヴァでのスウェーデン主力軍の壊滅とカール12世のオスマン帝国領ベンデルへの逃亡で終わった。 ロシア軍の追撃はオスマン帝国軍の介入によってプルト川(プルト条約)で頓挫した。
ポルタヴァの戦い後、当初の北方同盟が再建され、その後ハノーファーとプロイセンが加盟した。バルト海の南と東のスウェーデン軍残余は追い払われ、スウェーデン領土は連合国によって分割された。スウェーデン本国は西からデンマーク=ノルウェー、東方からはロシアに侵入された。デンマークの攻撃はヘルシングボリの戦い (en) で撃退されたが、ロシアはフィンランドを占領し (大いなる怒り) 、スウェーデン海軍と沿岸要塞に深刻な打撃を与えた。カール12世はノルウェーに戦線を開いたが、1718年にフレデリックスハルド (en) で戦死した。
戦争はスウェーデンの敗北で終わり、ロシアがバルト海における新たな列強国となり、ヨーロッパ政治における新しい重要なプレーヤーとなった。正式な講和はスウェーデンとハノーファー、プロイセンとは1719年のストックホルム条約、デンマークとは1720年にフレデリクスボー条約、ロシアとは1721年にニスタット条約がそれぞれ結ばれている。 これによって、スウェーデンはフィンランド、ズンド海峡、スウェーデン領ポメラニア (en) の北部を除くすべての領土を割譲させられ、 ホルシュタイン=ゴットルプ公領との関係は断たされた。ハノーファーはブレーメン=フェルデン (en) を獲得し、ブランデンブルク=プロイセンはオーデル川河口域を併合し、ロシアはバルト海地方をデンマークはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを確保している。スウェーデン絶対君主制はカール12世の死によって終焉し、自由の時代(Frihetstiden)が始まった。一方、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となり、また、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設し、1721年、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラトル)の称号を贈りロシア帝国となった[3]。
北方戦争は、後に文化人や軍人の研究材料として取り上げられている。ヴォルテールやクラウゼヴィッツによるものが有名である。
この戦争の時期、参戦各国で暦法が異なり、ロシアはユリウス暦(以下露暦)、スウェーデンは独自のスウェーデン暦(以下瑞暦)、ポーランドやドイツ諸侯はグレゴリオ暦を使用していた。参戦国が多数なため、本項目の日付はグレゴリオ暦を基本とし、必要に応じて露暦と瑞暦を併記する。
背景
バルト帝国の形成バルト帝国(1560年 - 1815年)詳細は「バルト帝国」を参照