大化の改新
[Wikipedia|▼Menu]
そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師の任命、国博士および内臣左大臣右大臣の新設、私地私民の売買の禁止などが実施された。古墳時代に、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇が皇居を置いていた難波高津宮の跡地周辺に、難波長柄豊碕宮が造られた。古墳時代以来となる難波へ飛鳥から遷都するため、様々な改革が進められた[1][3][6](改新の第二段階[1])。翌大化2年(646年正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた改新の詔も発布された(改新の第三段階[1])。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。

大化の改新には、遣唐使の持ち帰った情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら従来の氏姓制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、渟足柵磐舟柵を設けて、東北地方蝦夷に備えた。

ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められた。
研究史

大化改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末紀州藩重臣であった伊達千広陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている[7]。しかし明治以降の日本史研究において古代史の分野は非常に低調で、王朝時代以降が主要な研究対象とされてきた。そんな中、坂本太郎1938年昭和13年)に『大化改新の研究』を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった[8]

しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになった。坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった[9]。さらに原秀三郎大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し、「改新否定論」も台頭した[10]

「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し[11]、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた[12]1999年平成11年)には難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や[13]2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した[14][15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef