以下、6つの地域振興局の管轄ごとに市町村を記述する。 「平成の大合併」により消滅した郡町村。郡自体が消滅している場合は、郡名にリンクを付した。 大野町(現豊後大野市)の代ノ払遺跡で1981年(昭和56年)に発掘されたナウマンゾウの牙などの化石が、鋭い刃物のようなもので切断されており、人と動物が遭遇したことを示していると推測された。このため、人々が住み始めたのは、3万7000年前であると考えられている[14]。 2001年(平成13年)5月には、大分市の横尾遺跡 現在の大分県の県名は、古来国府が置かれていた大分郡(おおきたのこおり)に由来し「おおいた」という読みはイ音便の一種で、「おおきた」が転訛したものである。さらに、大分郡の名の由来については『豊後国風土記』では、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされる。しかし大分平野は広大とは言えないため、実際には狭く入り組んだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとする説が近年の定説である[16][17]。 古代には県の全部と福岡県の東部は豊国と呼ばれ、7世紀末ごろに豊前国と豊後国に分けられた。律令制のもとで、豊前国及び豊後国はともに上国・遠国とされた。 鎌倉時代に大友氏が豊後国の守護となった。室町時代にも守護に任じられた大友氏は大友氏時が九州探題斯波氏経を高崎山城に迎え助力するも南朝の勢力に押され当初は苦戦した。南北朝の統一により勢力を弱めた南朝を制し守護大名そして戦国大名へと大友氏は発展していった。 大友氏は、戦国時代の21代当主大友義鎮(宗麟)の代に最盛期を迎えた。宗麟は九州6ヶ国の守護及び九州探題に任じられ、九州の大半を支配した。また、清やポルトガルなどとの交易を盛んに行い、府内(現在の大分市)などでは南蛮文化が花開いた。キリスト教を積極的に保護し、豊後国の信者は3万人を超えたとされる[18]。宗麟自身も晩年に洗礼を受けてキリシタン大名となった。 しかし、大友氏は1586年(天正14年)の島津氏の侵攻(豊薩合戦)などにより衰退し1593年(文禄2年)に22代当主の大友義統が改易されて、大友氏による統治は終焉を迎えた。 江戸時代、当県にあたる地域には中津、杵築、日出、府内(大分)、臼杵、佐伯、岡(竹田)、森(玖珠)の八藩が分立するとともに、日田には九州の幕府領を管轄する西国筋郡代の代官所が置かれ、各地には肥後、延岡、島原藩の飛び領も点在した。このため、大きな都市は形成されなかったものの、代わりに各地に特色ある文化が生まれた。各藩の城下町だった地域には、現在も武家屋敷などが残っている所が多い。 享和3年(1803年)に完成した地誌『豊後国志』は国東郡、速見郡、大分郡、海部郡、大野郡、直入郡、玖珠郡、日田郡の8郡について、古代から近世までの歴史・地理を簡明に記載する。
中部地域
大分市(県庁所在地・中核市)
臼杵市
津久見市
由布市
東部地域
別府市(国際観光温泉文化都市)
杵築市
国東市
東国東郡
姫島村
速見郡
日出町
北部地域
中津市
豊後高田市
宇佐市
西部地域
日田市
玖珠郡
玖珠町
九重町
南部地域
佐伯市(九州最大の面積、九州最東端)
豊肥地域
竹田市
豊後大野市
消滅した郡町村
西国東郡 大田村 - 真玉町 - 香々地町
東国東郡 国見町 - 国東町 - 武蔵町 - 安岐町
速見郡 山香町
大分郡 野津原町 - 挾間町 - 庄内町 - 湯布院町
北海部郡 佐賀関町
南海部郡 上浦町 - 弥生町 - 本匠村 - 宇目町 - 直川村 - 鶴見町 - 米水津村 - 蒲江町
大野郡 野津町 - 三重町 - 清川村 - 緒方町 - 朝地町 - 大野町 - 千歳村 - 犬飼町
直入郡 荻町 - 久住町 - 直入町
日田郡 前津江村 - 中津江村 - 上津江村 - 大山町 - 天瀬町
下毛郡 三光村 - 本耶馬渓町 - 耶馬溪町 - 山国町
宇佐郡 院内町 - 安心院町
歴史
先史時代
古代
中世
近世
近代1931年には、宇佐郡、下毛郡、東国東郡、西国東郡、日田郡、玖珠郡、速見郡、大分郡、直入郡、大野郡、北海部郡、南海部郡がある。大分駅から豊後森駅まで鉄道が開通している。
1871年(明治4年)11月14日 (旧暦) - 旧豊後国内に置かれていた杵築県、日出県、府内県、臼杵県、日田県、森県、岡県、佐伯県の8県などを併合・成立した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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