しかし当主になったとはいえ、実質的には晴賢の傀儡であった。天文23年(1554年)3月には、三本松城主の吉見氏討伐のため総大将として出陣するが、全軍の指揮は事実上晴賢が執っている(三本松城の戦い)。
また、弘治2年(1556年)には、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内氏当主としての承認を拒まれている。 弘治元年(1555年)、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、大内義興の外孫とはいえ外様出身で、一度解消された経緯のある養子だった義長の求心力は低く、ただでさえ晴賢の謀反やその他の内訌で弱体化していた家臣団は完全に崩壊し、大内家は急速に衰退していく。 義長は兄・義鎮に援軍を求めたが、義鎮は元就との間に大内領分割の密約を結んでいたために応じなかった。また義鎮は大内家の家督に興味を示さず、何ら野心の無い事を元就に約していたという[7]。 こうして後背の安全を得た毛利氏は防長経略で弘治3年(1557年)3月、山口へ侵攻。義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄し重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走した。しかし、すぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件に開城し、自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて自刃を強要され、4月3日に陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に自害した[7]。享年26。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。 義長の死により、西国の名門大内氏は滅亡したが、後に大内輝弘が大友氏の支援を受けて周防に上陸し、大内氏再興を試みている(大内輝弘の乱)。また、早くから分かれた傍流の山口氏が江戸時代に大名として存続した。 義長没後の弘治3年(1557年)5月14日、毛利元就は大友義鎮に対して、大内家復興に関する所存を求めたが、義鎮は大内家の断絶を勧めて復興を拒絶している[8]。 永禄2年(1559年)、将軍・足利義輝が義鎮に対して、九州探題の職と共に大内氏の家督継承を認める御内書を発給している[9][10]。
防長経略と最期
偏諱を受けた人物
晴英時代(「晴」の字)
陶晴賢 - 初名は隆房。
※「晴」の字は第12代将軍・足利義晴から賜ったものであり、これを与えたということから晴賢が義長からかなりの待遇を受けていたことが分かる。
義長時代(「長」の字)
飯田長秀
陶長房 - 晴賢の嫡男。
杉長相 - のちの杉元宣。
野田長房 - 問田氏一族、野田隆方の子?(右田ヶ岳城を参照)
※第13代将軍・足利義輝から重ねて偏諱を受ける形で「義長」と改名したが、この名は祖父・大友義長と同じ諱である。これが偶然なのか、祖父にあやかって名乗ったのかは不明である。
関連作品
テレビドラマ
『毛利元就』(1997年、NHK大河ドラマ、演:三井智宏)
『大友宗麟?心の王国を求めて』(2004年、NHK、演:坂上忍)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『相良家文書』では「官務(おさい)腹へ御曹子誕生候間、豊州より御養子の儀は相違たるべくと存じ候。