大内義興
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^ なお、高国にも同様の打診(従四位下上階)があったが、これを辞退すること(『実隆公記』永正9年3月28日条)で、上階の栄誉を義興1人に与えつつ、代替に同じく名誉とされた将軍・義尹の御成を受けることでその意向にも配慮している。[31]
^ 長谷川博史や藤井崇の説によれば、尼子経久の大内領侵攻に動き始めたのは義興の帰国以降の出来事であり、そのきっかけは義興が石見守護に任ぜられたことに反発する前守護・山名氏の被官が経久を頼って小競り合いを繰り広げたことにあるとする。そして、大内氏と尼子氏の本格的な衝突は出雲支配の確立を目指す尼子氏と出雲国境に影響力を有していた備後の国人・山内氏や安芸の国人・宍戸氏との対立が原因であったとする[34]

出典^ a b c d e f g h 近藤清石 1885.
^ 『大内義興』 - コトバンク
^ a b c d e f g 『大内系図』
^ a b 『氷上山上宮参詣目録』
^ 藤井崇 2014, pp. 33?35.
^ 藤井崇 2013, p. 307.
^ 藤井崇 2014, pp. 32?33.
^ 藤井崇 2014, p. 35.
^ 福尾猛市郎 1989, p. 36.
^ 藤井崇 2014, pp. 36?43.
^ 藤井崇 2014, p. 49.
^ a b c 福尾猛市郎 1989, p. 38.
^ 藤井崇 2014, pp. 7?51?53?60?63.
^ 藤井崇 2014, pp. 7?53?56.
^ a b 『五社参詣次第』
^ 『肥陽軍記』
^ 『東寺過去帳』
^ 藤井崇 2014, pp. 7?56?60?65.
^ 藤井崇 2014, pp. 66?70.
^白崎八幡宮楼門棟札』
^ 萩市佐々並『六所神社棟札』
^ a b 『京都将軍家譜』
^ a b 『重編応仁記』
^ 藤井崇 2014, pp. 77?83.
^ 『足利家官位記』
^ 『王代一覧』
^ 福尾猛市郎 1989, p. 206.
^ 藤井崇 2014, pp. 83?84.
^ 藤井崇 2014, pp. 85?89.

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