大内義興
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^大乗院日記目録』文明8年12月20日条に「大内息新助今日京著畢」と大内政弘の息子の上洛の記事があるが、義興が誕生する以前の記事である。また、同日条に出てくる「新助」=「新介」の名乗りは、義興の幼名「亀童丸」もともに大内氏の嫡子に与えられる名乗りであり同氏の後継者が2人存在したことになってしまう。このため、義興には誕生前に死去あるいは廃嫡となった兄がいた可能性がある。また、大内高弘がその廃嫡された兄であった可能性も否定できない[6][7]
^ 常楽寺文書「大内殿御先祖次第」より。なお父・政弘は応仁元年(1467年)以来、応仁の乱の西軍方として京都に出陣して文明9年末まで領国には帰っておらず、日付が正しければ義興は大内氏の本拠地である山口ではなく京都で生まれたことになる。
^ 『肥陽軍記』では、落城したのは千葉胤資が守備する晴気城であり。落城後少弐政資は多久梶峰で切腹し、少弐高経は東肥前城原の城が落城後、広瀬山で自害したとある[1]
^ なお、高国にも同様の打診(従四位下上階)があったが、これを辞退すること(『実隆公記』永正9年3月28日条)で、上階の栄誉を義興1人に与えつつ、代替に同じく名誉とされた将軍・義尹の御成を受けることでその意向にも配慮している。[31]
^ 長谷川博史や藤井崇の説によれば、尼子経久の大内領侵攻に動き始めたのは義興の帰国以降の出来事であり、そのきっかけは義興が石見守護に任ぜられたことに反発する前守護・山名氏の被官が経久を頼って小競り合いを繰り広げたことにあるとする。そして、大内氏と尼子氏の本格的な衝突は出雲支配の確立を目指す尼子氏と出雲国境に影響力を有していた備後の国人・山内氏や安芸の国人・宍戸氏との対立が原因であったとする[34]

出典^ a b c d e f g h 近藤清石 1885.
^ 『大内義興』 - コトバンク
^ a b c d e f g 『大内系図』
^ a b 『氷上山上宮参詣目録』
^ 藤井崇 2014, pp. 33?35.
^ 藤井崇 2013, p. 307.
^ 藤井崇 2014, pp. 32?33.
^ 藤井崇 2014, p. 35.
^ 福尾猛市郎 1989, p. 36.
^ 藤井崇 2014, pp. 36?43.
^ 藤井崇 2014, p. 49.
^ a b c 福尾猛市郎 1989, p. 38.
^ 藤井崇 2014, pp. 7?51?53?60?63.
^ 藤井崇 2014, pp. 7?53?56.
^ a b 『五社参詣次第』
^ 『肥陽軍記』
^ 『東寺過去帳』
^ 藤井崇 2014, pp. 7?56?60?65.
^ 藤井崇 2014, pp. 66?70.
^白崎八幡宮楼門棟札』
^ 萩市佐々並『六所神社棟札』
^ a b 『京都将軍家譜』

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