大内義興
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事件の背景には大内氏の勢力拡大と北陸地方に亡命中の前将軍・足利義材との連携を恐れた細川政元の暗躍があったとみられる[14]。その後、義興は大友親実(大聖院宗心、大友親綱の子)を大友家の後継者にしようとしたが、政親の弟大友親治の反抗によって失敗している。また、前述のように明応8年(1499年)に反乱に失敗した義興の弟・大護院尊光が亡命したのも大友親治の下であり、彼は細川政元が擁していた将軍足利義高(義澄)の偏諱を受けて大内高弘と名乗っている。

一方、筑前国の奪回を狙っていた少弐政資高経父子も大友政親・親治兄弟と結んで肥前国から筑前国に兵を進めて大内軍と戦っていたが、義興も明応5年(1496年)暮れには赤間関に兵を結集させ、12月13日に筑前に向けて出陣した[15][16]。明応6年(1497年3月13日に博多の聖福寺門前で、15日には筑紫村と高鳥居城で戦い[1]、筑前に攻め込んだ少弐父子を破って肥前へと侵攻。3月23日肥前朝日城を攻略[1]4月14日、少弐政資を小城城に包囲した[1]。いったん山口に帰国した義興は16日、周防国一宮の玉祖神社、二宮の出雲神社、三宮の仁壁神社、四宮の赤田神社、五宮の浅田神社に参詣した[15]18日、小城城は落城し少弐政資は逃亡したがのちに自害した[注釈 6]

その後も少弐氏に攻められていた九州探題渋川尹繁を支援する。明応7年(1498年8月27日、肥前国綾部城に攻められていた尹繁のもとに援軍として派遣した仁保護郷が、肥前基肄郡養父郡で戦い勝利している[1]。また9月17日にも護郷は肥前三根郡で戦いここでも勝利した[1]。このように義興の軍勢は勝利を重ね肥前国における自らの勢力も広げた。一方で大友氏との戦いでは防戦を強いられる。明応7年(1498年11月、豊後国に右田弘量と末武長安を派兵するが、11月7日豊後玖珠郡青内山での戦いで大内軍は敗れ弘量は戦死、長安は負傷する[3][17]。宇佐郡の郡代であった佐田泰景が一時大友軍の捕虜にされるなど苦戦している[18]

そんな最中の明応8年12月30日(1500年1月30日)に諸国を亡命していた前将軍・足利義尹(明応7年(1498年)義材より改名)が義興を頼って山口に入った。義尹は自らを現在でも現職の将軍であると主張して山口に自らの幕府を置き、義興も細川政元に対抗して義尹を擁して上洛しようとしていた。これに対して、足利義高・細川政元は大友親治・大内高弘・少弐資元(政資の3男)・菊地武運・阿蘇惟長らに義興討伐を命じるとともに、文亀元年閏6月9日(1501年7月23日)には後柏原天皇から義興討伐の綸旨を獲得した。こうして義興は「朝敵」ということになり、続いて将軍義高の御内書と奉行人奉書が出されて改めて西日本の大名・有力国人28名に義興討伐が命じられた。文亀元年(1501年)6月20日、大友親治・少弐資元の軍勢が豊前国の要所であった馬ヶ岳城を攻める。神代与三兵衞尉や仁保護郷が戦うが、護郷は戦死し馬ヶ岳城は陥落する。だが7月23日に杉弘依が援軍として駆けつけ馬ヶ岳城を取り戻すことができた[1]。東では義興の討伐命令の受けていた安芸国の毛利弘元を味方に引き入れることに成功している[19]。間もなく、義興は足利義尹の仲介により大友親治と和睦し、永正4年(1507年)には少弐資元とも和睦し、北九州の勢力を保っている。
天下人へ

義興は永正元年(1504年)頃から上洛の具体的な構想を描いて領国内で臨時の段銭徴収などを行っていたが、永正4年(1507年)6月、足利義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳っていた細川政元暗殺された(永正の錯乱)。その後も細川氏内部では抗争が続いたため、畿内進出の好機と見た義興は、前将軍・足利義尹の上洛を口実として九州・中国の諸大名に動員令を発した。11月25日[20]には右田弘詮らに本国の留守を任せて山口から進発し防府に出て[21]、12月に備後にまで進出した。これに対して細川家では、政元の養子であった細川高国が義興と通じて、同じく政元の養子である細川澄元と対立・抗争し、永正5年(1508年)3月に細川澄元は高国・義興らに圧迫され、足利義澄と共に近江に逃走した。

4月27日に義尹を奉じて和泉国に入った[22][23]義興は畿内の澄元方を平定にあたっていた細川高国との連携を強め、5月5日には高国を細川京兆家(細川氏宗家)当主と認める義尹の御内書が出された。


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