大内宿
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大内宿からは中山峠(北緯37度17分2.6秒 東経139度50分53.3秒 / 北緯37.284056度 東経139.848139度 / 37.284056; 139.848139 (中山峠))を越えて倉谷宿(北緯37度16分11秒 東経139度50分45.6秒)に入り、日光街道今市宿栃木県日光市今市。北緯36度43分31.3秒 東経139度41分5.7秒)へと至った。若松城から江戸までは61、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要なとなった[5]

延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした[6]。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)[7]と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。北緯36度55分16.8秒 東経139度40分31.6秒)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没[8]五十里ダム参照)。会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、すでに定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている[1]

慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる[9]。なお当地では、幕末から出稼ぎが始まったようである。
「純農村」期街道の中央から両脇に付け替えられた水路(2014年10月)水路の使用例(2013年7月)

1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した[10]。新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。

1889年(明治22年)4月1日町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。
近代化

1946年(昭和21年)11月20日、楢原村は町制施行して楢原町となるが、この年に当地にも電気が引かれ、ランプから電灯での生活に変化した[11]1955年(昭和30年)4月1日には楢原町・旭田村・江川村が合併して下郷町が成立。日本高度経済成長が始まると、当地にも昭和30年代半ばにはテレビ耕運機を手に入れる世帯が見られ、昭和40年代になると簡易水道が引かれて近代化の波が押し寄せ始めた[11]近代化によって、旧街道沿いの民家に赤や青のトタン屋根が目立つようになった[† 3]
県道下郷会津本郷線大内工区は未着工[12]。周辺農地も圃場整備実施前。


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