大元帥
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日本では、明治4年(1871年)の建軍当初に大元帥という官名が兵部省職員令附属の相当表に記載され[2]、明治5年(1872年)9月7日太政官布告第252号にて服制(階級章)も定められたものの、任官者が無いまま明治6年(1873年5月8日に廃止された[3]。その後、明治12年(1879年)に出された陸軍職制などの一連の陸軍関係の法令や文書に「天皇陛下ヲ大元帥トナシ」などと表記されはじめ、明治15年(1882年)の軍人勅諭において「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と明記、天皇が陸海軍の大元帥と定められた[4]。大元帥たる天皇は大将の階級章に菊花紋章が付された特別な階級章を佩用し、軍服型の御服を着用した[5]。階級章と御服は陸海軍どちらのものも着用していたが、普段は陸軍のものを、海軍のものは海軍の行事の際にのみ着用した。このため、残っている御服姿の写真も前者のものが多い。

明治天皇大正天皇昭和天皇の3名がこれを称した。

井原今朝男は大元帥の呼称について、古来天皇のみが行うことが出来た外寇鎮圧の仏教儀式である大元帥法大元帥明王に対する祈祷)に由来するという考えを呈示している[6]

陸軍大元帥の肩章

陸軍大元帥の襟章

海軍大元帥の肩章

海軍大元帥の襟章

海軍大元帥の袖章

中国
王朝時代

王朝時代の中国では、元帥や大元帥は通常の軍階として用いられた。1127年に靖康の変によって、北宋の皇帝以下の皇族が捕虜となった際に、唯一逃れた康王が大元帥府を開いてとの抗戦軍を組織した事例がある。また反乱組織の長が大元帥を名乗ることもしばしばあった。小刀会劉麗川などがいる。
満洲国陸軍大元帥の御服を着用した康徳帝(1934年)

1934年康徳元年)に愛新覚羅溥儀皇帝となり、皇帝への権力集中が図られた。同日に新京市内で行われた皇帝即位式の際に溥儀は、満洲国のスローガンの1つである「五族協和」を掲げる上で、満洲族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満洲国軍軍服(大元帥服)を着用した。
歴代大元帥


康徳帝

中華民国国民政府陸海空軍大元帥の正装を着用した?介石主席(1943年)

中華民国草創期の1911年10月10日の武昌起義後、黎元洪は革命政府の首班になり、大都督、假定副元帥、假定大元帥に就任している。広東省で発生した護法運動においては護法軍政府(大元帥府)が設置され、大元帥が政軍の全権を握るとされたが、1918年にこの組織は改組された。1922年2月21日には孫文が「中華民国陸海軍大元帥」に就任して、大元帥府を再置している。孫文の死後は胡漢民が大元帥代理となった。1926年12月には張作霖が北京で「中華民国安国軍大元帥」を称し、北京政府の最高権力者となった。南京国民政府では 1935年3月30日に「特級上将」の位が制定され[7]、翌4月1日に国民政府軍事委員会委員長・?介石が叙せられた[8][9]

南京国民政府では 1937年8月11日に「中華民国陸海空軍大元帥」の位が制定され、翌8月12日に国民政府国防最高會議主席・?介石が叙せられた。これは陸海空軍を統括する最上位の将官で、大元帥に相当とされていたが、2000年に廃止された。


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