大倉商業学校
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1945年5月25日の空襲で赤坂葵町の校舎の大半を焼失。教職員と学生は8月15日の終戦を動員先の工場で迎えた。翌年1月、赤坂葵町の校地と引き換えに、大倉系の銃器製造会社であった中央工業所有の土地・建物の取得を決定し、北多摩郡国分寺町に移転した。
東京経済大学設立

1945年11月にGHQ財閥解体政策によって大倉家の資産が凍結され、大倉経専は自力再建を強いられることになった。国分寺移転後の大倉経専の首脳陣から大倉家ゆかりの人物が次々と姿を消す中で大学昇格運動が始まる。その際に葵友会から「某キリスト教団」の支援によってミッション・スクール化しようとの提案があって、教授会と激しく対立するという一幕もあった[11]

新制東京経済大学が誕生したのは1949年4月。全学生が夏期休暇中にアルバイトや募金活動を行い、1人につき3000円を大学昇格資金として寄付することを決議するなど、全学挙げての努力によって昇格を実現したのである。そして、旧制大倉経済専門学校は1951年3月に最後の卒業生を送り出して廃校となった。
年表大倉商業学校タイプライティング教室大倉高等商業学校 校門自修館(図書閲覧室)上空から見た葵ヶ丘

1898年

5月 - 大倉喜八郎、商業学校設立を表明

10月 - 財団法人設立


1900年9月 - 大倉商業学校開校(赤坂区葵町)

1901年1月 - 夜学専修科を開設(3月授業開始)

1904年3月 - 校友会発足

1905年4月 - タイプライティングの授業開始

1906年2月 - 夜学高等科(英語)増設

1907年4月 - 大阪大倉商業学校および善隣商業学校開校

1909年-10年頃 - 大倉商業学校校歌「商業花と咲きてこそ」が作成される[12]

1915年

8月 - 夜学高等科を夜学選科と改称、簿記科商業科英語科開設

9月 - 図書館完成


1918年2月 - 夜学選科募集停止

1919年11月 - 大倉商業学校を専門学校組織に変更認可、大倉高等商業学校と改称

1920年4月 - 大倉高等商業学校の授業開始

1923年

3月 - 大倉商業学校本科廃止

4月 - 夜学普通科開校

5月 - 卒業生に対して実業教員無試験検定および中等学校英語教員資格認可

9月 - 関東大震災により校舎焼失


1924年4月 - 大倉土木により校舎再建

1925年1月 - 葵友会発足

1926年

1月 - 夜学普通科を中等科と改称

4月 - 文部省から高等学校大学予科と同等以上と認定される


1928年

4月 - 創立者大倉喜八郎死去

7月 - 新校章制定(葵に高商)

10月 - 大倉高等商業学校校歌「京(みやこ)の西南」が作成される(作詞藤村作、作曲信時潔[12][13]


1930年10月 - 東京商大連絡問題に端を発する紛擾事件発生

1933年3月 - 夜学中等科を大倉高等商業学校中等科と改称

1934年1月 - 卒業生に対して東京商大への入学資格認定

1940年

3月 - 西多摩郡調布村に運動場開設

12月 - 校友会解散、報国団結成


1942年 - 大学昇格運動起こる

1943年3月 - 大倉高等商業学校中等科を東京大倉商業学校と改称

1944年4月 - 大倉高等商業学校を大倉経済専門学校と改称

1945年4月 - 空襲により校舎焼失

1946年3月 - 赤坂葵町から北多摩郡国分寺町へ移転、東京大倉商業学校廃止

1949年2月 - 東京経済大学設置認可

1951年3月 - 大倉経済専門学校廃止

歴代督長・校長
大倉商業学校

初代督長
渡辺洪基(1900?1901)

第2代督長 石黒忠悳(1901?1906)

第3代校長 立花寛蔵(1906?1919)

大倉高等商業学校・大倉経済専門学校

初代校長 立花寛蔵
(1919?1927)

第2代校長 川口酉三(1927?1936)

第3代校長 古館市太郎(1936?1946)

第4代校長 関太一(1946?1951)

校地の変遷と継承港区虎ノ門の東京経済大学発祥の地碑

創立時の所在地は、大倉喜八郎邸(現在はホテルオークラ大倉集古館が建つ)の隣接地の東京市赤坂区葵町(現・港区虎ノ門)であった[14]


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