大仙陵古墳
[Wikipedia|▼Menu]
大仙陵古墳で明治維新の直前から現在まで研究者などの立ち入りが全く認められていないため外表施設について正確な情報はないが、上記の三重濠掘削の際に出土したと言われる女子人物頭部や馬の頭(以上は宮内庁所蔵)や、東側の造出しから多数の大の破片が出土したとされる[16][17]。また江戸時代には住民の立ち入りが認められていたため、この付近の庄屋であった南家の1795年の文書には「素焼ノ水瓶」(埴輪)が並んでいたことや「コロタ石」(葺石)が多いことが記されている[18]
埋葬施設 石室・石棺図(複製)前方部中段で発見されたとされる竪穴式石室長持形石棺の絵図。堺市博物館展示(原本は八王子市郷土資料館所蔵)。

後円部は最も重要な人物が埋葬されるが、江戸時代には埋葬施設の一部が露出していた。江戸中期の1757年宝暦7年)に書かれた「全堺詳志」には長さ318cm幅167cmの巨大な長持型石棺が認められ、しかも盗掘されている旨が書かれている[19][20]

前方部正面の二段目の斜面からも竪穴式石室が見つかっている[21]1872年(明治5年)に、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊して埋葬施設が露出した。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されている。残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6?3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている[21][22]
副葬品

後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は1872年(明治5年)の発掘調査の際に、石棺の東側に「甲冑硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている[23][22][24]

甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に2個の蝶番を付けられており、これらの組合せは、当時の流行を表したものである。

鉄刀二十口は、把(つか)やには金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス坏(硝子坏)は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。

なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。
ボストンの仁徳陵出土品

アメリカボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。

鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を細線で表しており、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。また、この鏡は、百済王より七支刀と同時に奉られた七子鏡であるとする説もある。

大刀は、刀身が折れて欠失しており、長さ23センチの把(つか、柄)と環頭(柄頭)が残っている。環頭は鋳銅製、金鍍金で、環の内側には竜の頭部を表し、環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅任那の古墳から出土している。

宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉覚三(天心)により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという[25]
陪塚

陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は近親者や従者を葬ったとされる大古墳の近くに存在する小さな古墳である。大仙陵古墳で宮内庁が指定・管理する陪塚は12基ある。坊主山(円墳、直径10m)、源衛門山(円墳、直径約40m)、大安寺山(円墳、直径55m)、茶山(円墳、直径55m)、永山(前方後円墳、墳丘長104m、周濠あり)、丸保山(帆立貝式、墳丘長87m、周濠あり)、菰山(帆立貝式、墳丘長36m、周濠あり)、樋の谷(円墳、直径47m)、銅亀山(方墳一辺26m)、狐山(円墳、直径23m)、竜佐山(帆立貝式、墳丘長67m、周濠あり)、孫太夫山(帆立貝式、墳丘長56m、周濠あり)である。しかし永山古墳は規模が大きく造出しを有する前方後円墳であること、坊主山は三重濠外縁から264mと遠いことから陪塚とは考えにくい。逆に坊主山より近くにありながら宮内庁が指定していない塚廻(円墳、直径35m)、鏡塚(直径15m)、夕雲一丁南(方墳)、収塚(帆立貝式)、昭和初年頃まで存在していた帆立貝式一基は陪塚の可能性が高い。以上により陪塚は15基あるとされている[26]

竜佐山古墳

孫太夫山古墳

永山古墳

史料上の記述
『記紀』の記述

古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は87年正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
延喜式

平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。
堺鏡

『堺鏡』(1684年貞享元年))には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として認識されており、現在でも近隣市民からは親しみをこめて「仁徳さん」と呼ばれている。また尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化が度々行われている。1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置。享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置。1853年嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更。1864年元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、1865年慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていた。
明治時代

1872年(明治5年)の前方部斜面の崩壊により埋葬施設が露出したことを受けて、堺県県令税所篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ただし、この記録は関東大震災により大半が焼失したため発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない[要出典]。
名称の変遷と混乱

形状を現す大山・大仙、被葬者を表す仁徳、これに続けるものに学術的な古墳、陵墓としての陵・天皇陵・御陵・帝陵と多数の組み合わせが生じ、混乱している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef