大ベルリン
[Wikipedia|▼Menu]
この法律が目的としたのは、統一的な都市計画と都市設計の実現である。これはまたベルリンが1920年代に世界に名だたる国際都市に飛躍するための重要な基礎となった。

この法律は今日も有効である。1990年の統一条約の際、連邦州としてのベルリンの拡大と境界を定義するための公式声明で言及された。
「大ベルリン」の継続使用

「大ベルリン」という用語は、数十年の時を経て使用機会が少なくなる一方であるが、行政においては今なお健在である。「大ベルリン」という用語は、1949年5月23日のドイツ連邦共和国基本法に採録され、1990年のドイツ再統一、そして当時の第23条(ドイツ語版)の廃止まで存在した。ここでは公式に都市全体を指す場合に用いられたが、実際は西ベルリンのみに適用された。また東ベルリンの都市行政もまた、1977年までなお「大ベルリン参事会(ドイツ語版)」と称していた。1950年以降のベルリン憲法(ドイツ語版)では既に、都市と州としては「ベルリン」のみが使用されている。ここでは「大ベルリン」は「以前の地方自治体としての大ベルリン」という限定された意味で用いられている。
1920年以降の変更点
市境

ベルリンの外側に対する境界は、今日でも大部分がなお1920年に設定されたものと同じである。しかし様々な理由により下記の境界が変更された。

1928年:デュッペル
(ドイツ語版)領地区域を編入

1945年:イギリスとソ連占領当局は西部の郊外地区の交換に合意。ヴェスト=シュターケン(ドイツ語版) は、ソ連管理区域(直後にソ連占領地域)となった。ガートウ飛行場(ドイツ語版)とグロース・グリーニケ(ドイツ語版)の東部がシュパンダウ区に編入となり、イギリス管理区域となった。

1972年:西ベルリン東ドイツとの間で最初の領土交換。西ベルリンの飛び地(ドイツ語版)解消と他の様々な境界線の調整。

1988年:2度目の西ベルリンと東ドイツ間の領土交換。残る飛び地の解消と接続、さらなる境界線調整。

1990年:統一条約による、いくつかの境界線の調整。1945年のヴェスト=シュターケンの分離が撤回される。しかしガートウ飛行場とグロース・グリーニケ地区(東部)はベルリンに残留し、こうしてグロース・グリーニケは分割状態が続くことになった。ベルリン市域外のヘーノウ(ドイツ語版)とアーレンスフェルデ(ドイツ語版)に建設された新市街がマルツァーン区(ドイツ語版)とヘラースドルフ区(ドイツ語版)に編入された[16]

区の境界と名称

1921年:区名変更。プレンツラウアー・トーア区→
プレンツラウアー・ベルク区、ハレッシェス・トーア区→クロイツベルク区(ドイツ語版)

1934年:区名変更。フリードリヒスハイン区(ドイツ語版)→ホルスト=ヴェッセル=シュタット区(ナチスの「殉教者」ホルスト・ヴェッセルに因む)

1938年:ほぼ全区にわたる大規模な境界変更。

1945年:区名回復。ホルスト=ヴェッセル=シュタット区→フリードリヒスハイン区

1972年:初の地域交換。様々な管理区域の境界線、特にポツダマー駅(ドイツ語版)周辺。

1979年:マルツァーン区(ドイツ語版) がリヒテンベルク区とヴァイセンゼー区(ドイツ語版)の一部から新設。

1985年:ホーエンシェーンハウゼン区(ドイツ語版)がヴァイセンゼー区の一部から新設。ヴァイセンゼー区は区域補填のためパンコウ区の一部を編入。

1986年:ヘラースドルフ区(ドイツ語版) がマルツァーン区の一部から新設

1988年:レンネ・ドライエック(ドイツ語版)とローミューレン橋(ドイツ語版)を含む連合軍管理区域の境界の調整

2001年:区改編:区数は合併によって全23区から全12区まで削減された[16]

境界線の機能の変遷

1920年に設定された市境にはほとんど変更がなかったが、その性質は幾度も大きく変化した。

1920年 - 1945年:市境と
プロイセン自由邦の州との境界線

1945年 ? 1990年:ソ連占領地域と四か国分割占領都市ベルリンとの境界線。大ベルリン法で定められた区の境界線は、占領管理区域の境界線となる(ヤルタ会談ポツダム会談)。

1949年 - 1990年:ベルリン市境の西部は東ドイツとの国境となる。こうしてベルリン封鎖後、鉄のカーテンの一部となる。

1952年 - 1990年:ベルリン市境東部は東ドイツ県境となる。

1961年 - 1990年:ベルリンの壁西ベルリンとの境界線。

1990年以降:統一条約で定められたベルリン州ブランデンブルク州との境界線。

通りの名称

いくつのも地域の中心部がまとめられたため、通りの名称が重複することがよくあった。例えばドルフ通り(Dorfstrase, 「村通り」)、ハウプト通り(Hautpstrase, 「中央通り」)、ヴィルヘルム通り (Wilhelmstrase) などである。1930年代には、いくつかの名称変更が広範に行われ、特に1931年と1938年のものが大規模であった。既存の重複する通りの名称は地域に関連する名称に変更された。多くの場合「Dorfstrase」はそれぞれ地区名の前に「Alt-」を付加したものに変更された。1938年の変更では、特にホーエンツォレルン家の一族に因んで名づけられた通りが、国民社会主義に近い人物の名前に変更された。1950年にはさらに広範な変更が行われ、(主に)複数の区で重複する通りの名称が変更された。特に東ベルリンの区では、重複する通りの内、貴族の名が冠せられたものが変更された。一方でファーストネームや樹種といった無難な名称は変更されなかった。

2010年代でもシラカバ並木通り (Birkenallee) が5つ、シラカバ通り (Birkenstrase) が5つ、シラカバ道 (Birkenweg) が3つ、アカシア並木通り (Akazienallee) が2つ、カシワ通り (Eichenstrase) が4つ、マロニエ並木通り (Kastanienallee) に至っては7つある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef