1820年5月、ククタの議会(スペイン語版、英語版)が開催され、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルやシモン・ボリバルが憲法制定について話し合い、8月30日にグラン・コロンビア共和国憲法が成立した。
1821年ヌエバ・グラナダが解放されると、首都をサンタフェ・デ・ボゴタに遷した。当初、コロンビアはボゴタとカラカスの中間にあるどこかに首都を置く計画を持っていたが、実現しなかった。その後グアヤキルを解放し、コロンビアは1822年にキトを解放して領土に組み入れた。さらにペルーに援軍を派遣し、ペルーとアルト・ペルー(ボリビア)の解放で決定的な役割を果たした。 ボリバルの理想は南米に統一的な大国家を建設することだったが、武力による領土拡大を是とする思想は持っていなかった。ボリバルは南北アメリカの独立国を招請して1826年にパナマ議会
パナマ議会の失敗と内部対立
それどころか、コロンビア内部において分離の動きが加速した。国内では中央集権を望むボリバルと、分権化を求める副大統領フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルの対立が深まった。集権・分権の争いには、人種・階級的な問題も関係していた。ボリバルが考える奴隷制廃止や平等主義は、地方の有産者の反感を買っていたが、そうした思想に正面から反対することは難しかった。分権化すれば権力が地方有力者に回収され、寡頭支配を続けることができると考えられた。また、ベネズエラでは遠く離れたボゴタの風下に立つことを望まない人々が不満を抱いた。 ボリバルは強権を発動して分離傾向を抑えようとしたが、1830年にホセ・アントニオ・パエスがベネズエラ分離に踏み切ると、事態の収拾は困難になった。アントニオ・ホセ・デ・スクレは、分離を押しとどめようと交渉に赴いたが失敗し、同年中に暗殺された。自らの無力を悟った「解放者」は病気で引退し、やはり年内に死んだ。 こうして大コロンビアを維持しようとする有力指導者はいなくなり、ベネズエラとエクアドルは分離した。1831年にボリーバル派のラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると、残存部もコロンビアから分離独立して、ヌエバ・グラナダ共和国として再編成した。
大コロンビアの分裂
関連項目
アメリカ大陸諸国の独立年表
中央アメリカ連邦
リオ・デ・ラ・プラタ連合州
外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、大コロンビアに関連するメディアがあります。
⇒Flags of The World, Gran Colombia
『大コロンビア
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