公共交通ではない渡船として、東急ゴルフパークたまがわ(川崎市高津区下野毛地先)においてゴルフ場利用者向けの渡船(クラブハウスが東京都側にあったため)が運航されていたが、2015年3月をもって廃止された[14]。また地域おこしのために渡船を復活させようという取り組みが一部地域で検討されている。 飲用水として多摩川から取水が行われている。なお東京都の水源は約8割が利根川水系及び荒川水系(荒川は武蔵水路によって利根川の水も導水されている)、約2割が多摩川水系である[15]。 1930年代までは調布浄水場付近で取水されてきたが、しばしば塩水(塩水くさび)が遡上して水道水に塩辛くなった。このため1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて丸子橋の上流部に塩水対策も兼ねた調布取水堰を建設している[16]。水質の悪化により調布浄水場は1967年(昭和42年)に廃止となったが、その後も調布取水堰は塩水対策として残された。 かつては砂利採取が行われていた(後述)。「砂利鉄道#関東地方」も参照。 河原を無断占有して畑を作ったり、住居を設置したりする人もいる。 多摩川は水質汚濁が進む昭和中期までは漁業が盛んで、中流では鮎の鵜飼、下流ではシラウオ漁が行なわれた[17]。「鮎漁」「生態系」も参照。現在は娯楽としての釣りが行なわれており、遊漁料は、多摩川漁業協同組合の収入源となっている。釣りと他のレジャーとの軋轢もありカヌーイストに暴言を吐いて石を投げつけるなどの行為も発生した[18]。 上流ではラフティングなどが行なわれており、多摩川川下り事業者組合には18社が加盟している[19]。 多摩川流域を利活用したエコミュージアムは「多摩川エコミュージアムプランの推進」で、平成18年度国土交通省手づくり郷土賞(地域活動部門)受賞
利用
水資源など
釣り・行楽
このほか河原に多摩川の水を利用した公園が設置されている。
歴史歌川広重『江戸近郊八景』より「玉川秋月」。現在の東京都調布市近辺から川崎市多摩区方面を望んだものであるという。
多摩川は中流以降、青梅を扇頂とする広大な扇状地を形成し、現在の武蔵野台地の基盤となった。また、その他にあった全ての丘陵(狭山丘陵を除く)を削り去り平坦な地を作った。
数万年前以降、武蔵野台地の隆起により多摩川中流はこの台地の南縁へ押しやられ、現在のように多摩丘陵の北縁を流れるようになった。
流域では旧石器時代以降の遺跡や古墳が見つかっており、沿川には早くから人が定住していた様子がうかがえる。 古代には多摩川は「六玉川(むたまがわ)」の一つ、「調布の玉川」として知られ、多摩川にまつわる和歌が『万葉集』や勅撰和歌集に数多く収録された。 多摩川にまつわる民間伝承や宗教的な言説は少なくない。代表的なものとしては、日蓮宗系の宗教集団内において数多く描かれた日蓮の入滅図がある。日蓮は1282年9月に瀬谷で多摩川を渡り、現在の池上本門寺の場所にあった信徒の邸宅に入って翌月にそこで没している。その後、釈迦入滅図に見立てた日蓮入滅図が数多く描かれ、それらに多摩川が描かれることとなった。 また多摩川流域には、多摩川から引き上げられたとされる本尊や神体を祀った社寺が10以上も存在する。最も上流にあるのは東京都福生市の関上明神社で、次いで東京都調布市の深大寺、川崎市多摩区登戸の善立寺や長念寺、東京都世田谷区上野毛の六所神社、同瀬田の行善寺、大田区西六郷の安養寺、同東六郷の観乗寺などとなっている。こうした漂着神以外にも、東京都府中市にある大國魂神社の三の宮の御輿は、かつては是政で多摩川の水中に沈められる、いわゆる水中渡御が行われていた。 この他、矢口の渡しで謀殺されたとされる新田義興の御霊伝説も広く知られている[20]。 1831年には宿河原村にあった松の枯れ木「綱下げ松」に霊験があるとの噂が立ち、江戸からの観光客が大挙して押し寄せ、騒ぎは翌年まで続いた。風紀紊乱を問題視した江戸幕府が徹底的にこれを取り締まり、1833年には「綱下げ松」も伐採されてこの騒ぎは収束した[21]。 戦国時代に豊臣秀吉の下で関東転封となった徳川家康は、多摩川下流の扇状地での水稲生産を拡大するため、1597年に用水奉行・小泉次大夫に命じて両岸の灌漑用水路の建設に着手。1611年に二ヶ領用水(右岸)と六郷用水(左岸)が完成した。その他にも、1604年頃より取水を始めたと推定されている大丸用水(右岸)や、1654年より取水を始めた玉川上水(左岸)などの用水路が相次いで整備され、それまで水利が芳しくなかった多摩川下流の低地・台地に豊富な農業用水をもたらし、米の生産量が増大、江戸の生活を支えた。
歌枕としての多摩川
伝承・宗教
利水
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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